再結成ユニコーン。
●先日、ノマドたちが毎週楽しみにしている「ドラえもん」をHDD録画して見ようと思ったら、なぜか「ミュージックステーション」の特番になってて、アリャリャリャ?的なコトになった。最近ズーッとテレ朝は開局50周年特番ばっかりやってるからね。
「ミューステ」なんてボクは滅多に見ない。もう20年以上の長寿番組だってコトもココで初めて知った。タモさんの隣の女子アナは毎回見る度に違うコが座ってるようだけど、全員一緒に見えるなあ……とか思いながらダラダラオープニングを見てたら、あららっらら!ユニコーンが出てきたぞ!おい!へー、このバンド、再結成したんだ!「悪いけど、パパにちょっとこのバンドの所だけ見せてくんない?パパが中学生だった時に活躍してた人たちなんだ」うわー久しぶりだわ~。


ユニコーン「WAO!」

●再結成シングル「WAO!」2009年
●番組では、このバンドはメンバー全員がソングライティングもメインボーカルもこなすのが特徴だ、と紹介されてた。そういえばそうだったっけ。でも再結成で奥田民生が歌わない、アベBが歌うというハズし加減は、確かにユニコーンっぽいかも知れない。
アベBこと阿部義晴さんによる作詞作曲、老体にムチ打ったヤケクソなロックンロールであるこの曲、息切れしてるのもコミコミで全部ご愛嬌な感じも、昔のユニコーンと変わんないなーと思った。全盛期はアルバムの三分の一くらいがおフザケ楽曲でツイテいけないと思った事もあったもん。「おどる亀ヤプシ」とかジャケでもうキツかったような…。今聴けば違う聴き方出来るかな?

ユニコーン「おどる亀ヤプシ」



同期のオンナノコとユニコーンの再結成で盛り上がる。
●その翌日、たまたま同期の女子サチコと二人でランチを食ってたら、この「ミューステ」のハナシになった。彼女は会社で仕事中で、音量をミュートされたテレビでこの再結成ユニコーンを眺めてたらしい。「もうワタシびっくりしちゃった!アベBさんとか全然変わってないのね!」でもベースの EBI さんはナゼかサラサラロン毛だったよ。ギターの手嶋さんはサスガにちょっとフケテタね。「テッシーね♥でも西川さんは全然印象変わってなかった」タモさんとのトークじゃ西川さん50歳だって言ってたよ、テレ朝と同い年だって。「ウッソー!信じられない!」でも西川さんバリバリ現役として、ジュンスカのボーカル宮沢のバンド ジェット機 でドラム叩いてるんだよね。

ジェット機「best」  ジェット機「BEST」


バンドブームの最中に思春期を送ったボクらの世代にとって、ユニコーンはアイドルだったのだ。男子であるボクにとってはロックバンドなんだけど、女子にとっては「タミオよりもエビさんの方がカッコいいと思ってた」とかいう見え方になるんだわ。ソレをサチコと話してて思い知った。地方出身のお嬢様と思ってたサチコがことのほかこの時代のロックに入れ込んでて、結構ビビった。でもソロの奥田民生は興味持てないんだって。アイドルらしくなくなったからかな?


で、早速ムカシのユニコーンが聴きたくなった。
●家のCD棚をゴソゴソ探して古い音源を探したのだけど、あれ、全然見つからないぞ?……なんと、ボク、ユニコーンのCD、一枚も持ってなかった…。アレは全部レンタルしてカセットで聴いてたんだ…。不覚……。で、速攻でレンタルしてきました。イチバン思い出深いアルバムを。


ユニコーン「PANIC ATTACK」

「PANIC ATTACK」1988年
●まだ昭和だぜ…懐かしい。もうコッチが恥ずかしくなるほど、若気の至りで必死に疾走する青春ソングで埋まってるセカンドアルバム。なんだか老成してドッシリ腰が座ってしまった今の奥田民生のロックとは全然質の違うスタイル。だって髪型がもう若気(若毛)の至りだもん。おセンチな恋心やミミッチイ哀愁やショーもないシタゴコロなどなどの甘酸っぱくて青臭い感情が、ピチピチ音立てて身をよじってるみたいな、今となってはコソバユイメッセージが、中学生だったボクには最高にリアルでたまんなかった。チャーミングでドラマチックな曲展開もポップだったし。手に負えないツッパリ不良ロックや非現実的なルックスのヴィジュアル系と違って、この人たちはボクらの一番ソバにいると感覚的に察知した。

「I'M A LOSER」「SUGAR BOY」、「サービス」とか聴くと、片思いにムズムズしてたヘタレ中学生の自分を克明に思い出すもんな…。塾帰りの夜更けに、気になる女の子の家の近所まで意味なく行ったりして、でも公衆電話に入っても全然ダイヤルする勇気が出ないのです。カッコ悪い!死ぬほど!しかも公衆電話!携帯もポケベルもないの!しかも自宅に直接かけるからお父さんとか出ちゃうの!「こんな時間に何の用なんだい?」コワいコワい、お父さん出ると困る!しかも子機すらない時代なんだぜ!あー、今の少年少女諸君は自分たちがどんだけ恵まれてるか、もっと思い知れ!……ボクは今でも冬のオリオン座を見上げると、公衆電話に入ったり出たりして結局ナニも出来なくてトボトボ家路に着く時に見た夜空を思い出す…。

ユニコーン「服部」

「服部」1989年
氣志団このオッサンを追跡して自分のアルバムのジャケに使った時は爆笑しました。そういう意味でオマージュされてもイイアルバムだったと思う。バンドブームのど真ん中に発表された、いかにもバンドブームな一枚なのだから。意味のないおフザケトラックとかがたくさん入ってきて、なぜかシングルでは坂上次郎さんがボーカルをとった「デーゲーム」みたいなトライもあって、浮かれ気分と冗談と勢いだけのアイデアがムダに入ってるトコロが、最高に「バンドブーム」。「イカ天」もこの年スタートしたのですよ。
ユニコーン最大の有名曲「大迷惑」は、突然転勤を言い渡されて単身赴任を強いられるサラリーマンの悲哀を、ノリノリのロックンロールにノって喚いてみましたという楽曲。冷静に考えると、転勤くらいでガタガタ言ってるなんて、とんだバブル体質だよね。ある意味時代をスゴく反映してる。
●現代の「派遣切りで明日から住む所がありません」「日雇い派遣で食いツナイでますが、もうマンガ喫茶に住むのはイヤです」といった大大大大迷惑労働市場の状況を、ロックにして歌うヤツって実はいないよね…。誰か試しにやってみてよ? イマドキの薄っぺらい励ましソングや応援歌よりズッと痛快かもよ。ボクはホンマモンに安定剤抗うつ剤マミレの病気ヤロウだからさ、中途半端な励ましソングとか聴いてると、そんな小手先口先でひねったウタなんかでどうにかなるモンじゃねえ!舐めんなホンモノを!とか思っちゃうのさ。

●ちなみにヒヨコのママ友達、ミユちゃんママも、実家の県でユニコーン再結成ツアー公演のチケット獲ったとか言ってた。女子の方がこういうの真剣に取り組むよね。


比較的最近の奥田民生のシングルを聴く。

奥田民生「無限の風」

奥田民生「無限の風」2007年
●なんか今の原ジャパンは全然盛り上がってないような気がするけど、盛り上がりつつもカラ振った星野ジャパンは、この曲を応援ソングにして戦った。野球好きの民生にとってはイイ仕事だったと思うし、この曲もボクは好きだ。だって別に応援歌じゃないんだもん。

「荒野の上に立って 砂漠の上に立って 花のように咲いて ダイヤのように輝いて
 荒野の風になって 砂漠の風になって 確かに土を蹴って どこまでも飛ぶのさ
 あいつは風 口笛をふきながら」


●ソロ仕事は約半分くらいしか聴いてないんだけど、奥田民生の音楽は、ユニコーンの頃と違って、冗談めかした皮肉をロックでくるんだような曲も、奇をてらったヘンテコソングもなくなった。なんとなく人を喰ったようなトボケた曲はあっても、中途半端な励ましソングなんて絶対歌わない。ただ何事にもブレない生き方を淡々と差し示すような音楽になった。
奥田民生は、こういう大人になりたいと思えるアニキ像。彼の音楽は変わったが、彼とリスナーの距離感はそんなに変わってない。相変わらずボクらの一番ソバにいる。20年分キチンと彼は大人になり、ボクも大人になった。ソコだけしか変わってない。



さて、サチコとのランチトークはナゼか BOOWY にまで及ぶ。
「布袋さんってコワい人なんでしょ。オッキイしカオもコワいし…」サチコ、完全イメージ先行じゃん。でも、この前町田康と殴り合いのケンカしてスポーツ紙に載ったね…。コワいのかな?イヤイヤ、絶対ヒムロックの方がコワいよ。「そうかも…京介はムカシ「狂介」だったモンね」サチコ、お嬢のクセして豆知識が渋いよ。
●群馬の高校の同学年だったベースの松井常松氏、男子便所でヒムロック「バンドやるゼ」と言われ「うわーコワいからヤだけど断れねー」と感じたってエピソード、どっかで聞いた事ある。
GLAY の連中ですら、アリーナ級ライブで共演しながらも、楽曲コラボもしたいですと切り出せずにモジモジしたくらいヒムロックにはマジ緊張したって言ってたもんね。特に彼らは完全な BOOWY フォロワーだから「神」に見えるだろうな。


ここで BOOWY ~ヒムロック関連の音源を。

BOOWY「LAST GIGS」

BOOWY「LAST GIGS」1988年
●これもアホのようにカセットで聴きまくった音源だよな~。彼らのおかげで「ギグ」って言葉の意味を知ったです。そんな名盤も中古180円で買い直しちゃった。
●今聞くとギターソロのフレーズも全部覚えてる自分がいて感動。布袋寅泰のギターがあまりに奔放でやっぱり気持ちイイ。基本的にこのバンド手堅いけど地味なリズム隊じゃないですか。だから布袋さんがたった一人でサウンドを分厚くしてるんですわ。ライブだからオーバーダブしてるわけでもないのに、全然音が薄っぺらくならない。一人で弾いてると思えないよ。
BOOWY はテレビ露出なんてほとんどなかったバンド、ボク自身は実際に一回もテレビで見た事がなかったが、そんなアンダーグラウンドなバンドが「東京ドーム2デイズ公演」を果たし、それを最後に解散するという物語は、当時の中学生にはまさしく「リヴィングレジェンド」、いや「現代の神話」のように思えたモンだ。そもそも、「東京ドーム」自体がこの1988年に出来たばっかだったんだよ。「ビッグエッグ」とか言っちゃって。
●彼らに夢中にならなかったヤツは、「ビーバップハイスクール」「おニャン子クラブ」にも夢中になれなかった寂しいヤツだと思う。そんくらい強烈なユースカルチャーだったし、そのバンドの最後の花火だったこのCDは、宝石のような輝きを放ってた。



氷室京介「FLOWERS FOR ALGERNON」

氷室京介「FLOWERS FOR ALGERNON」1988年
ヒムロック、BOOWY 解散後のファーストソロ。これも180円で売ってたので買っちゃった。タイトルはダニエル・キイスの同名小説「アルジャーノンに花束を」からピックアップ。この本もリアルタイムの同時期に読んだ。高校一年生になった頃。イイ話だったなあ。
●後に作詞から遠のいていくヒムロックだけど、この頃は詞曲ともに自作。プロデューサーには「イカ天」の審査員だった吉田建が入ってる。「イカ天」見てた時は一体このエラそうなオッサンは誰なのだろうか?と思ってたけど、実は沢田研二「ストリッパー」とかを歌ってた頃のバックバンド エキゾティクス の中核的存在で、歌謡曲歌手になってた彼を80年代に再ロック化させた張本人。今はキンキキッズの音楽総監督だったりしてる。
●純粋な4ピースロックバンドだった BOOWY に比べて、多彩なアレンジでカラフルになった印象。凶暴なロックカリスマから、セクシーな「艶」シンガーの側面が強くなってる。最初のシングル「ANGEL」 BOOWY ファンも納得のタフなロックチューンだったが、シンセで脇を引き締めた新鮮さもあった。コレが「ヒムロック改」の進化形態だと全世界に表明。次のアルバム「NEO FASCIO」も含め、ヒムロックのシンセ使いは、ナゼか彼の世界観にSF/サイバーパンクなイメージを付け加えたような気がする。
●今の耳で聴くと、8曲目「STRANGER」のアレンジが POLICE「ROXANNE」まんまのニューウェーブ・スカビートで斬新。最終曲「独りファシズム」も50年代アメリカンオールディーズなワザありアレンジ。しかもリリックは泉谷しげるでした。


氷室京介「20th Anniversary ALL SINGLES COMPLETE BEST “JUST MOVIN ON”~ALL THE-S-HIT~」

●氷室京介「20th Anniversary ALL SINGLES COMPLETE BEST “JUST MOVIN' ON”~ALL THE-S-HIT~」1988~2008年
●あの「LAST GIGS」~ソロ始動からいつの間にか20年経ってしまいました。中学生だったボクは2児を抱えるアラフォーの入口に立ってるし。……でもヒムロックの牙は丸まってないんだわな…。スゴいね…。

しかし、そのキャリアは単純に順風満帆ではなかった。「自律神経失調症」発症。
●1993年。4THアルバム「MEMORIES OF BLUE」も先行シングル「KISS ME」ミリオン達成、ソロキャリアで最高の売上げ。しかし、この次のアルバム「SHAKE THE FAKE」の制作過程で、彼もボクと同じ「自律神経失調症」にかかっちゃった時期があったという。当時34歳。ボクとほぼ同じ歳の時に発症してる。スゴい偶然と湧き出る親近感。ヒムロックとボクの意外な共通項。

「R25」のインタビューに当時の心境を語ってる場面がある。以下引用。

「100万枚を超えて、当時自分が思っていたのは、“自分の音楽がどれだけの人の深いところに響いているのか”ということでした。“なんでそんなに評価されるんだろう”っていう疑問」
ー骨身を削って全力で己を追い込んで創造したものが、大多数に支持される不信感。そして“氷室京介”はある種のビッグプロジェクトになっていた。
「みんなが腫れ物に触るような感じで俺に接するんですね。三十何歳っていってもまだガキですよね―いまよりは若いという意味で。俺をプロテクトする人たちがいて、スター扱いする人もいっぱいいて。周囲に自分を映すものがなくなった。見渡しても誰もリアルな自分を映してくれない。俺が言ったことに“そうですね”って返すだけ。裸の王様になる危険をすごく感じていたんです。しかも、自分には音楽しかない。このままじゃ切符の買い方すら忘れるな、ヤバイな俺、って思ってた」

そして彼はロサンゼルスへ移住を決意する。そんで現在もロス在住。引き続き「R25」から。

ーアメリカ行きを決めたのは94年。PVの撮影で渡米し、そのまま所有していた別荘に居ついたのが始まり。きっちりと部署に分かれ、各々が自分の管轄でプロの仕事をきちっとこなす。アメリカのスタッフの働きぶりを見て即決した。
「日本にいて、自分が自分じゃない姿で周りと波長を合わせてたら、絶対後悔するだろうって思ったんです」

●あー、この辺がボクと全然違うわ。会社休職した瞬間にボクもロスとかサンフランシスコに移住してたら、病気早く治ってたかな?なわけないよな…。

●でも冷静だよね…「裸の王様」になる危険を察知する…それが自分の危機になると自覚する…自覚せずに「裸の王様」で突っ走る人はたくさんいるもんね、コムロさんとか。
●……!いやいややっぱ冷静なんかじゃないよ!この病気の微妙な苦しみを同じく味わってるボクとしては、当時の彼も「全部を投げ出しても失ってもイイから、とにかく避難!このトチ狂った状況から緊急脱出!パラシュート一つで飛び降りろ!」って気分だったに違いないと思える。プロモ撮りにアメリカ行って「オレもう日本帰らねえし!」はかなり周囲をビビらせたでしょうよ!
ヒムロックのようなストイックな人は、ギリギリまで自分を追いつめるタイプだろうし、自分に課すハードルもスゴく高いだろう。超病気体質だね。でも、アメリカ行きは治療のセオリーとしてはかなり荒技、つーか禁じ手に近い。問題解決の手段にもヒムロックは自分に厳しいタスクを課す方法を選んだんだ。覚悟もハンパじゃない。

ーアメリカに行ってしまうことで、アーティストとしては「いなくなるだろう」と思っていたという。それに対する恐怖感はあったけれど、「自分で選んだことだから、そこに向かって泳いでいくんだっていうことですよね」


結果として、ロスの外人ミュージシャンとの仕事を通じて、彼は再活性化。
●作詞方面では松井五郎森雪ノ丞松本隆など一流作家と組み、一定水準以上のヒムロックサウンドを維持。「EASY LOVE」ではラップまでフィーチャーしてるし、「うぃっしゅ」でお茶の間タレントになった竹中登元首相の孫 DAIGO(当時は DAIGO☆STARDUST という名前のソロシンガーだった)にデビュー曲「MARIA」まで提供。この曲は詞/アレンジを完全に変えた曲「CLAUDIA」として自分の持ち歌にもしてる。
●アルバムには BOOWY 時代回顧の気分を漂わせた「CASE OF HIMURO」というベスト盤に収録された BOOWY 曲の再録「CLOUDY HEART」(全然違う大人アレンジ)や、GLAY feat. KYOSUKE HIMURO 名義のコラボ作「ANSWER」も収録。GLAY完全に喰われてます。
●以前から聴いてみたかった KAT-TUN に提供した「KEEP THE FAITH」もセルフカバー。ハードでデジビートなトラックながら、意外とドラマチックな展開に欠けてしまってる印象。あくまで歌唱力に限界がある KAT-TUN に合わせて、メロディのレンジを狭く設定してあげたんだな……自分の楽曲だったらもっと激しく展開するよう作っただろうね。



●なんか知んないけど、BARBEEBOYS までもが再結成するらしくて、やはりヒヨコのママ友達が「絶対ライブ行く」と息巻いているらしい。まー、ソッチはボク的にはひとまずイイや。サチコも興味なかったっぽいし。


スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://unimogroove.blog4.fc2.com/tb.php/1253-e28130a9