「笑っていいとも」に小沢健二が出てきたのでありました。
●録画で観たよ。「いいとも」って、今月いっぱいで滅びちゃうんだってね。

オザケンいいとも1

オザケンいいとも2

オザケン、テレビ出演は16年だという。年齢スーパーに45歳って書いてあって、うわーオッサンになってるーと思ったけど、ボク自身も40歳になってるんだからしょーがない。FLIPPER'S GUITAR の時代からもう25年も経ってるのね。ルックスは変わってないなあ…ボーダーシャツとかも渋谷系の頃のまんまだなあ。今はアメリカ人女性と結婚して、9か月の赤ちゃんがいるとな。
●スタジオでは「ぼくらが旅に出る理由」を歌ったオザケン。テレビ不在の16年間は、アメリカ・ニューヨークを拠点にしつつ、中南米やアフリカといった第三世界に長期滞在して過ごしてたという。ボリビア・ラパスとか南アフリカとかエチオピアとか。あー文字通りに「旅に出る理由」があって、旅の中に暮らしてたのね。4年前からライブ活動を再開し、その時に日本に「来る」。もう日本ですら旅先の一つ。アコギ1本の弾き語りと、年を重ねてより優しくなった歌声は、予想以上にセンチメンタルに聴こえてしまった。「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」だね。

「笑っていいとも」自体が久しぶりだったわ。翌日に安倍首相がゲストに出てきたのも見たけど、アレはなんか気持ち悪かったわ。



相変わらず息子と「超時空マクロス」のDVDを見てる。注目はこの早瀬未沙中尉。

早瀬未沙中尉

物語は中盤。地球に一度は帰還したマクロスだが、艦内に収容している一般市民5万人を解放下船されることも許されず、そのまま宇宙に出て敵軍ゼントラーディの大艦隊にまた立ち向かえとのご無体な指令を受けて一同凹む。一方で、リンミンメイちゃんは艦内のカリスマアイドルとしてますますブレイクして、その歌声は敵スパイをも魅了、なんと彼らは仲間を率いてマクロスへ亡命、異星人との友好的エンカウンター達成。そんなミンメイとスレチガイまくる主人公・一条輝くんは、先輩・フォッカーさん&後輩・柿崎くんを亡くしガッカリ、そんで上官である早瀬未沙さんと、なんだか接近中の模様。
「機動戦士ガンダム」でいうところのミライさんなポジションである早瀬中尉を、輝くんは「オバサン」呼ばわりで散々コキ下ろす。ナゼかグローバル艦長以外は全員女性である艦橋スタッフの中でも、彼女は見事なお局ポジションで、演出的にも散々な扱いである。せっかく明るい栗色の綺麗な髪の毛を、もっさり重たくまとめてるトコロも、見事に残念な地味女子っぷり。ここまでヒドい扱いだと、さすがに同情も芽生えるわ。気まぐれ小悪魔すぎるミンメイちゃんよりもずっと彼女の方が落ち着いててイイわと、ボクは思う訳で。WIKIで調べたら「オバサン」呼ばわりは不当も不当、なんと彼女は19歳だった!まーブライト・ノアも最初は19歳だったんだよね。世間の地味女子、がんばれ!




●今週はダンスホールレゲエということで。
80年代からダンスホールレゲエの歴史をボクなりになぞってみます。
●ムダに長くなりそうなので、心してかかって下さい。
●というか、アナタが正気の人間なら、ココで読むのをヤメましょう。



1985年の SLENG TENG リディムの登場、そしてダンスホールレゲエの到来。

「DANCEHALL THE RISE OF JAMAICAN DANCEHALL CULTURE」

「DANCEHALL : THE RISE OF JAMAICAN DANCEHALL CULTURE」1977-1993
●先日、ひとつのプロジェクトが終わり、その打上げをやりました。今の職場は以前のチームほど飲み会をしたりしないので、プライベートを語り込む場面がないんです。だから、一度メシを食べるとずっと一緒に仕事してた人の意外な素性に今さらのように驚く事が多いのです。あれーキミそんなに真剣なサーファーだったんだー、いやいやオレはサーファーですけどあの人はバリバリのスケーターですよ、なんて具合に。
●転職を重ねてる人もたくさんいる。今回はレコードメーカーから転職してきた人がいることに初めて気づいて。ここで音楽トークが盛り上がるわけです。その人曰く「ボク、新婚旅行、ジャマイカいったほどレゲエ好きなんですよ」えー、そうなんだ!ボクもダンスホールレゲエに興味津々なんです。SLENG TENG リディムが大スキで!「マジすか!音楽業界以外の人で、SLENG TENG の話する人初めてみました!」つーかボクもこんなの人に話すの初めてですよ!そのあと、キングストンでのサウンドシステム体験などなどをコッテリ聞いてしまいました。「夜中の4時まで空き地でドカドカ音鳴らしてるのがホテルからも聴こえるんですよ。行けば、アタマの上にフルーツをたっぷり乗せたお姉さんがお客さんにその場で果物を売ったりしてて。でもキングストンはめっちゃ怖い場所でした…。」

●レゲエ/ジャマイカの音楽シーンも、数十年の歴史の中でいくつかの節目がありまして。おそらく BOB MARLEY の世界進出が最大の事件でしょう。しかし1985年の SLENG TENG リディムの出現も、それに比肩するほどの大事件だったとボクは考えてます。70年代以降のシーンに大きな影響力をもったプロデューサー/レーベルオーナー KING JAMMY 史上初のオール打ち込みで組んだリズムトラック(レゲエ用語にしてリディム)が SLENG TENG。これがその後のレゲエの姿を一変させます。「ダンスホールレゲエ」の出現です。この英 SOUL JAZZ RECORDS によるコンピレーションは、レゲエの姿が大きく変わっていく時代を写し取り、ダンスホールレゲエという世界が立ちあがって行く様子を切り取る野心的な試みに挑んでいます。

SLENG TENG を最初に採用したヒット曲、TENOR SAW「PUMPKIN BELLY」が収録されてます。ボクが感じる SLENG TENG の魅力は、そのトラックが恐ろしく単純かつ粗末・粗野なのに、恐ろしくグルーヴィに機能しまくるコトです。特に工夫のない簡素な四ツ打ちのスネアにシンセベースがボヨボヨボヨボヨボヨボヨボンボンボヨボヨボヨボヨボヨボヨボンボン…。やってるコトはこの上なくシンプルなのに、このボヨボヨが本当に野蛮。このベースがウーハーで強烈にアンプリファイされたらマジタマラン。コロンブスのタマゴのように、簡単なコトで状況を激変させるスゴミがあります。ここに、名シンガー TENOR SAW が涼しげなボーカルをフワリと乗っけている。この粗野と洗練の落差も素晴らしいシズル感に。TENOR SAW 自身がこの三年後に交通事故死してあまりに短いキャリアを閉じるコトになるのもあわせ、この曲は特別なモノに聴こえるのです。
SLENG TENG リディムを使った曲としては、SUPER CAT「TRASH AND READY」1986年も収録されてます。その後ヒップホップシーンでも注目される彼のディージェイングの達者ぶりが踊ってます。

ダンスホールレゲエは、こうしてリディム制作を打ち込みベースにすることで、多様なリズム実験にトライする自由を獲得し、大きな表現の幅を持つに至ります。裏打ちを強調する狭義のレゲエから解放され、もっとトリッキーだったり、スピーディーだったりするようになるのです。もちろんソコにはダブ実験の成果も取り込まれて華やかな色添えも加えられていて。そして新時代にふさわしいシンガーやディージェイ、プロデューサーが登場。その後アメリカに進出してツアーを行ったりメジャー契約を得るものも出るのです。CHAKA DEMUS & PLIERS、PINCHERS、INI KAMOZE、CUTTY RANKS、SUPER CAT、SLY & ROBBIE…。
REGGIE STEPPER「UNDER MI SIN TING」はコレまた粗野でザックリした楽曲ですが、ダンスホールのワイルドさが毒々しく光っていて最高。CHAKA DEMUS & PRIERS「MURDER SHE WROTE」はその軽快軽妙さでボクのダンスホール解釈を大きく広げてくれた名曲。CUTTY RANKS「CHOP CHOP」の高速グルーヴ推進力はキックの強さとディージェイの総合力が織り成すパワー。FRANKIE PAUL は正統派シンガーだけど、その楽曲「CALL THE BRIGADE」のピコピコ感覚は明らかに SLENG TENG 以降の感覚。
●加えて言えば、ダンスホールレゲエリズム実験、粗末な表現から特殊なグルーヴを汲み上げる感覚は、サウス系ヒップホップの中にも溶け込んでる気がする。要素をシンプルに削ぎ落としながらも効果的なグルーヴを生み出す感覚。ボクにとっては同じ美味しさを感じてるんです。

●さらにこのコンピは、SLENG TENG 以前、つまり70年代末から1985年以前の音源も多く収録しています。SLENG TENG 以降の時代を支えるクリエイターやパフォーマーの仕事、ダンスホールレゲエのスタイルを準備した名曲名演。オールドスクールヒップホップ、つまりラップの技術がパラレルで進化しつつある時代の70年代末80年代初頭の、ディージェイングの進化と洗練の過程が見える。
●ちなみに、ちょっと整理のために言及しますが、レゲエ用語においてのディージェイは、ヒップホップでいうトコロの DJ と意味が大きく違うので、わざわざカタカナでディージェイ、その行為をディージェイングと書くコトにします。ディージェイはマイクを持って声を出す人。レコードプレイヤーを操作する人ではありません。でもラップをしてるとも言えない。歌ともラップとも言えないナイマゼの表現。ことこのダンスホール黎明期は完全に区別がつかないほど、歌とラップ的なモノが合体していて、ディージェイングとしかいいようがない。シンガーとディージェイが合体してシングジェイなんて言葉もあります。もちろん、王道の美声シンガーも大勢います。BARRINGTON LEVY、FRANKIE PAUL などなど。GREGORY ISSAC は、COOL RULER の異名でラヴァーズロックの王道を歩んでおりました。そんななか JACOB MILLER & TRINITY「I'M A JUST DREAD / ONE SHUT」は過渡期音源としては象徴的。BOB MARLEY の後継と目されながらも1980年には事故死する JACOB の力強い歌唱に続いて TRINITYディージェイが縦横無尽に始めまくる。ああ、楽しい。


1981年、BOB MARLEY 没。その後のレゲエヒーローを探すメジャー音楽業界。

YELLOWMAN「KING YELLOWMAN」

YELLOWMAN「KING YELLOWMAN」1984年
BOB MARLEY の活躍で、レゲエは70年代末には世界的な認知を持つ最新鋭の音楽となりました。しかしそのカリスマは1981年にガンで亡くなってしまう。その不在を埋めるために、アメリカのメジャー音楽産業はジャマイカで立ちあがろうとしていたダンスホールレゲエから新しいヒーローを見つけようとしました。
YELLOWMAN はダンスホール世代として一番早くから成功したディージェイ。「黄色い男」という名前はアルビノの容姿に由来。1970年代からサウンドシステムで下積みを経験し、1980年に地元でレコードデビュー。そしてダンスホール系として初めてアメリカのメジャーと契約する。で、このアルバムがズバリその米 COLUMBIA からリリースされた盤だ。SLENG TENG 前夜とあって、リズム実験としてのスリルさはない。その独特の節回し、ディージェイング、そしてシモネタ(レゲエ用語ではスラックネスというジャンルになってる)が評価されていた、ということにもなっているけど、今日の耳には彼の手法がスタンダードになり過ぎててフツウに聴こえてしまう。ちょっぴり残念なレコードだ。
今の耳に残念、ってだけでなく、当時の耳にも残念だったらしい。アメリカやジャマイカ以外のリスナーはレゲエの新進アーティストに BOB MARLEY のようなカリスマティックなメッセージを発信するヒーローを期待していた。ところが、この男は、ややシモネタ混じりの歌を飄々と歌うだけで、世界を変えるような含蓄溢れる音楽を鳴らそうとしなかった。だって彼は徹頭徹尾ダンスホールの男だから。結局この世界デビューはやや不発に終わってしまう。
●ちょっと気になったのは、「STRONG ME STRONG」「DISCO REGGAE」の二曲だ。明らかに質感の違うバックトラックのクレジットをよく見ると、白人ベーシスト BILL LASWELL 率いる特殊ファンクバンド MATERIAL の演奏だった。初期ヒップホップの文脈にロックの尖った感覚と80年代のダブ処理をマブしたゴツいヤツYELLOWMAN 自身の立ち振る舞いは全然変わらないのに、明らかにヒップでクール。この二曲で十分満足。

YELLOWMAN「MI HOT」

YELLOWMAN「MI HOT」1991年
このCDは、下北沢のシルバーアクセのお店で50円で購入したもの。よっぽど要らないモノだったのか、100円と値札がついてたのにわざわざ半額にしてくれました。まー「KING YELLOWMAN」は一応アンディ・ウォーホル風にキドッたジャケになってましたけど、コッチのジャケはだいぶデタラメですからね。へったくそなイラスト、どーにもならん。これがジャマイカのやり方なんでしょうね。
●メジャー進出の失敗は、米 COLUMBIA の担当者にはガッカリなコトだったでしょうけど、YELLOWMAN 本人にはどうでもイイコトだったようで、その後もジャマイカでせっせと仕事に勤しみ膨大な量の音源とアルバムをリリースし続けます。つーかこの人は、メジャーデビュー以前の段階で BOB MARLEY を上回る量の楽曲をリリースしてたほど、自分でもどれだけレコードがあるのかワカランほどの多作家なのです。で、これは、1986年にガンを患いながらも見事復帰(アルビノはカラダ弱いというのは本当なんだね)、ややリリースのペースが落ち着いた頃の1991年作品です。芸風も至って変わらずのディージェイぶり。バンドスタイルでありながら、ダンスホールの軽快さを完璧に体現する楽しさがあります。
●クレジットを見ると、バンドメンバーに、ドラム:STEELY、キーボード:CLEVIE の名前が見えます。この時代のダンスホールシーンで活躍したプロデューサーチーム、STEELY & CLEVIE ですわ。WYCLIFFE "STEELY" JOHNSON CLEVELAND BROWNE。早い段階からドラムマシーンを駆使したトラックを制作、KING JAMMY の元で腕を磨き、1987年に独立してレーベルを立ち上げるコンビ。ボクは彼らの音源を聴く事でダンスホールの楽しさに目覚めました。アレは2001年のロス出張、その帰国直前の空港売店で彼らのCDを6ドルで買ったのです。そして目からウロコ。なんて自由な音楽なんだろうと感じたのであります。

SHABBA RANKS「ROUGH READY WOL1」

SHABBA RANKS「ROUGH & READY, VOL.1」1992年
新興カルチャーのダンスホールレゲエ・シーンからスターを作りたいという、米メジャーレーベルの企みは必死なもので、80年代末から90年代初頭のこの時期にはたくさんのディージェイがジャマイカから引っ張り出されていた。その一人、SHABBA RANKS も地元ではまさしく本物のダンスホール・ヒーローだったが、彼のあまりに濃過ぎる個性(というかやっぱりシモネタ=スラックネスなダンスホールのお下品な宿命)は全世界にセールスするには味を薄めなくちゃいけないのか、このアルバムでは地元の既発曲をあの手この手でリミックスしてまろやかテイストに改変している。しかも冒頭二曲は今は懐かしきグラウンドビートになっててマジビックリ。まー正直当時高校生/大学生だったボクにもダンスホールは難易度が高過ぎて、SHABBA RANKS の音楽は好きになれなかった、ってコトを甘酸っぱく思い出すんですけどね。
●でも、その他の楽曲のほとんどが、基礎の部分で BOBBY "DIGITAL" DIXON のプロデュースだそうで。レーベル DIGITAL-B の主宰でもある彼のトラックは、ボクの大好物。シンプルながらも強力なベースミュージックとして構成されてる DIGITAL-B 音源は、ボクにとっては90年代ダンスホールレゲエの中でも特に中毒性が強い。レゲエとしての要件を満たしてないかのような、自由過ぎるリズム/テンポ構成。STEELY & CLEVIE が関わったトラックもある。終盤、スティールパンが軽く使われていて、おおジャマイカってカリブ海の南国だったわとイキナリ思い出す。ボクの中ではレゲエもダンスホールも南国のリゾートミュージックって認識は完全に存在しません。ただひたすらにスリルたっぷりの濃ゆいゲットーミュージックですから。


1990年前後、ダンスホールレゲエと、ニューヨークヒップホップの接点。

「100 DYNAMITE ! DANCEHALL REGAE MEETS RAP IN NEW YORK CITY」

「100% DYNAMITE ! DANCEHALL REGGAE MEETS RAP IN NEW YORK CITY」1988-1996年
●前述「DANCEHALL : THE RISE OF JAMAICAN DANCEHALL CULTURE」と同じ、英 SOUL JAZZ RECORDS によるコンピですが、そのテーマが非常に野心的で圧巻です。ダンスホールレゲエとニューヨークのヒップホップの関係を説明するのが、その狙い。そんで、このコンピとその狙いが前提にしているのは2つの事実

事実その1。レゲエはヒップホップと同根の関係。ニューヨークで初めてのブロックパーティを始めた伝説のDJ KOOL HERC はジャマイカ移民。ずばり自分の故郷で見てきたレゲエのサウンドシステムをなぞって、大きなスピーカーとターンテーブル二台、そしてマイクを用意した。AFRIKA BAMBAATAA の両親はジャマイカとカリブの島国バルバドス(RIHANNA の出身地といえば今の人は理解出来る?)だし、THE GRANDMASTER FLASH もバルバドス生まれ。70年代から80年代に活躍したニューヨーク・ヒップホップの始祖たちは、そのルーツがジャマイカをはじめとしたカリブ海諸国と深く関係していた。実際、1965〜1980年で85000人のジャマイカ人がニューヨークに移民として入ってきている。1990年の段階でアメリカのカリブ海諸国系市民は70万人、うちほどんどがニューヨークに暮らしている。
事実その2。それだけ深い関係がありながら、このコンピが取り上げる音源が発表される1990年代初頭以降は、ダンスホールレゲエはアメリカのメジャーシーンで影響力を持ちえなかった。本場ジャマイカから渡来するもの、アメリカ・ニューヨークの内側からダンスホールに挑むもの、そしてヒップホップアーティストによるダンスホールへのアプローチ、様々な取り組みがあったのに、マジョリティにはならなかった。そんな時代の徒花のような存在が、このコンピには収められている。なぜダンスホールは定着しなかったのか…。ダンスホールレゲエがアメリカで注目を浴びるのは、10年ほど時代を空けた SEAN PAUL の登場を待たなければならなかった。そんな、一瞬だけしか輝けなかったそんな貴重な音源を、コツコツと集めた意義の重さ、シカと受け止めたい。

まずは、本場ジャマイカからの渡来アーティスト。
YELLOWMAN のアメリカ上陸がなんとなくスベってしまった1984年以降で、キチンと上陸を果たせたジャマイカのダンスホールアクトは SUPER CAT だ。高性能なディージェイフロウを、しっかり計算されたヒップホップビートに合体させた代表曲「DON DADA」はその後のヒップホップアーティストにも影響を与えるほど。
●この「DON DADA」にリミックスなどでうっすら関わっていたニューヨークのトラックメイカー BOBBY KONDERS という男が、ヒップホップとダンスホールの融合を目指した特殊なクリエイティブを発揮する。自身名義の「MACK DADDY」、プロデュースを担った YANKEE B「THE ORIGINAL」は実にユニーク。まさしくこれこそヒップホップレゲエだ。

アメリカ・ニューヨークの内側からダンスホールに挑んだ者たち。
●ニューヨーク発のレゲエアーティストとして最初にブレイクしたのは、SHINEHEAD だ。STING「THE ENGLISHMAN IN NEW YORK」「THE JAMAICAN IN NEW YORK」と読み替えてメジャーヒットを果たした男。彼もジャマイカ生まれだが一度ロンドンに移民して、その後ニューヨークに移って来た。その意味ではジャマイカンでもイングリッシュマンでもあったのかも。メジャー契約は1988年、その時代の楽曲「KNOW HOW FE CHAT」が収録されてる。独特のフロウは紛れもなくダンスホールだが、メリハリのついたタイトなドラムマシーンとトラックを引き締めるスクラッチが同時代のヒップホップと同じ感覚。ベースが太くてイイ。
SHAGGY もニューヨークからブレイクしたダンスホールアーティスト。「OH CALORINA」「BOOMBASTIC」を90年代中盤でメジャーヒットさせる…このころのイベント、レゲエジャパンスプラッシュ(あれ?サンスプラッシュだっけ)で来日してたような気が…ボク、このイベントの警備のバイトしてて目の前で彼を見た記憶が。ただし、ここに収録されてるのはそんなメジャーものではなくソレ以前のインディ音源「MATTRESS JOCKEY」。湾岸戦争に海兵隊員として従軍してる彼だから入隊1988年以前の録音か?よりヒップホップ色の強い高速ブレイクビーツを見事にディージェイする技の切れ味。
●そんな彼らの周辺に控えていたのが、RUFF ENTRY CREW という連中。RED FOX、NIKEY FUNGUS といったディージェイがこのCDに収録されてる。これまたレゲエとヒップホップの高度なハイブリット感覚を備えていて非常にオモシロい。

ヒップホップアーティストによるダンスホールへのアプローチ。
●ヒップホップサイドからレゲエにアプローチしていたのは、FU-SCHNICKENS。ここでは TENOR SAW の代表曲「RING THE ALARM」をヒップホップ変換している。おもろラップ感を出してたニュースクール(つまり A TRIBE CALLED QUEST BUSTA RHYMES と同期ってコトね)のユニットで、おそらく最初はややオフザケ狙いだったかもしれないけど、キチンとヤリ切ってる。結果、彼らの選んだこのレゲエカバーは完全なヒップホップながら高い評価を集める。
BOOGIE DOWN PRODUCTION を率いた KRS-ONE はキャリア初期にレゲエっぽいフロウを用いたりもしていた。その弟子筋にあたる MAD LION という男、コイツは SUPERCAT 本人に会ってレゲエに目覚めた男で、ドスの利いた声でヒップホップとレゲエのフロウを合体させたような独自の味を熟成させている。トラックは完全にヒップホップなんだけど。

●もう1人、注目しておくべきは JAMALSKI という男。前述 BOBBY KONDERS にヒップホップレゲエをプロデュースしてもらったり、MAD LION のように KRS-ONE のアルバムに参加したりしていたレゲエディージェイだったのだけれども、1994年にジャングル〜ドラムンベースが発生すると、そちら側のシーンに接近して2000年には渡欧。今では SHY FX UK APACHE、ZINC、PESHAY といったドラムンベースアーティストに寄添って MC を担っているとな。人生いろいろ。

SUPERCAT「DON DADA」

SUPER CAT「DON DADA」1991年
●さて、前述「100% DYNAMITE !」でも触れた SUPER CAT のアメリカ・メジャー盤を聴いてみる。そもそも「スーパーネコ」ってなんだろ?と思って WIKI を見ると、CAT というのはジャマイカではインド系を差す言葉らしい。確かに SUPER CAT はインド系のハーフなんですって。10代からサウンドシステムでステージをこなし、80年代は地元で数々のシングル/アルバムをリリースしてる。その延長で米 COLUMBIA と契約、全米デビューをこのアルバムで果たすのだ。
●プロデュースを手掛けたのは SHAGGY を担当した ROBERT LIVINGSTON という男。STEELY & CLEVIE も少し関与している。表題曲「DON DADA」含めた3曲以外は全てジャマイカで制作されており、そのダンスホールスタイルは全く薄まっていない。YELLOWMAN 時代に比べてずっとテンポが高速化して、マイク捌きも巧みで鮮やか。その先の読めない展開が実にスリリング。
メジャーらしい演出といえばヒップホップアクトの客演か。HEAVY D & THE BOYS HEAVY D が参加。またCDのクレジットには記されてないが、若き THE NOTRIOUS B.I.G. も参加しているという。実は2人ともジャマイカ系だ。濃ゆいダンスホールを薄めずにアメリカで認められた希有な例だ。ヒップホップアーティストからの敬意も厚い。
●その後 SUPER CAT はアメリカに移住。ヒップホップの客演を担ったり、アルバムを出したりして過ごすが1996年にメジャー契約を解消。2000年代には THE NEPTUNES のレーベル STAR TRAK に所属するもろくに音源を発表せずに契約終了。


ダンスホールの深化。バッドマン/ガントークからラスタ信仰/コンシャスネスまで。

NINJAMAN「ORIGINAL FRONT TOOTH GOLD TOOTH DON GORDON」

NINJAMAN「ORIGINAL FRONT TOOTH GOLD TOOTH DON GORDON」1993年
●アメリカ音楽産業の思惑と関係なく、ジャマイカ国内のダンスホールシーンはどんどん加熱していく。NINJAMAN は12歳からサウンドシステムに関与して SUPER CAT らに揉まれながらディージェイスタイルを確立。犯罪を題材にする、ルードボーイ/バッドマン/ガントークと呼ばれるジャンルで武名を轟かす過激派となった。レコードレビューは1986年頃、1988〜1992年頃は向かう所敵なしのイケイケオラオラぶりで、このアルバムの時期にはあまりの過激ぶりに批判が集まって公演や録音が滞ってしまってたほどだ。
●で、この金の前歯を自慢する(このヘンのややついていけないメンタリティが、オモシロくてしょうがない)アルバムでは、レゲエ界の名コンビ SLY DUMBER & ROBBIE SHAKESPEAR、つまり SLY & ROBBIE が担当。70年代から活動する鉄壁のリズムセクションとして、STEELY & CLEVIE 以上の信頼感で現在も活躍する。…STEELY & CLEVIE は片割れが死んじゃったからね。コワモテで怖いイメージが強い NINJAMAN ですが、声は高くてスゴミより軽みで勝負するタイプ。それでも今なお悪大将としてダンスホール世界に君臨しているからスゴい。
●あ、ちなみにコレ下北沢ディスクユニオンで300円で購入。ダンスホールって日本でもやや地位が低いのか、往々にして激安だよね。

MAD COBRA「HARD TO WET, EASY TO DRY」

MAD COBRA「HARD TO WET, EASY TO DRY」1992年
●これも同時代のダンスホールだね。SUPER CAT、SHABBA RANKS、NINJAMAN のチョイ後輩にあたるバッドマン系ディージェイ。ガナリ声で噛み付くようなスタイルが象徴的。トラック制作陣には、SLY DUMBERROBBIE はいない)や STEELY & CLEVIE とテッパンの布陣…というか、ここまで聴いてくると全部同じに聴こえてくる寸前。
●ただし、エクゼクティブプロデューサーに CLIFTON "SPECIALIST" DILLON という男が。コイツは SHABBA RANKS のアルバムにもクレジットされてたヤツで。本来はジャマイカでサウンドシステムを運営してたのをたたんで、アメリカに渡ってレゲエをアメリカに移入する立場に。その尖兵が SHABBA RANKS MAD COBRA というわけだ。コイツの主導か、ビターでアゲアゲの一本槍にならず、この盤はナニゲにバラエティ豊かなバランス配分がなされてる。ハードなダンスホール路線とアメリカ市場向けかちょっとマイルドなサウンドデザインの二刀流。
RICHIE STEPHENS というシンガーの瑞々しいボーカルとラヴァーズロック風のリディムが爽やかな「LEGACY」や、なんとサウス系ヒップホップの元祖 THE GETO BOYSSCARFACE!)をフィーチャーしたヒップホップレゲエ「DEAD END STREET」が聴きドコロ。

BUJU BANTON「VOICE OF JAMAICA」

BUJU BANTON「VOICE OF JAMAICA」1993年
BUJU BANTON はなんと12歳の頃からサウンドシステムでマイクを握っていた早熟なディージェイ。14歳の頃にはすでにレコードデビューしてる。このアルバムの時でやっと20歳。ドアップ過ぎて他のジャケと区別がつかないけど、裏ジャケに映る若い BUJU は美青年。イケメンアイドルディージェイだったのかも。声は NINJAMAN よりも MAD COBRA よりもガラガラに野太くて、ちょっと華奢な外見からは意外にみえるほど。
●彼のキャリアにとって重要な曲がある。彼が15歳だった1988年にリリースされ、このアルバムと同じ年に再発された「BOOM BYE BYE」という曲だ。これは同性愛者への攻撃を歌った内容で、この曲のために彼は海外から激しいバッシングに会うのだ。コレを契機に、彼は自分の社会的立場に自覚的なアーティストへ転向。このアルバムにおいては、HIV感染児への援助やセーフセックスを呼びかけたり、ゲットーの暴力を批判したりしている。結果としてこの作品以降、彼はラスタ信仰に傾倒しドレッドを伸ばし始めるのだ。こうした社会的メッセージを楽曲に折込むスタイルをレゲエでは「コンシャスネス」という。
●ポップスとしてのバランス感覚を保持した MAD COBRA と違い、このアルバムはほぼ純然たるダンスホールレゲエ。イタヅラにテンポを早めずにグッと溜めたグルーヴが、骨格ムキだしの打ち込みビートに絡まって実にゴツく響く。やや苦いほどの代物か。主だった制作陣は、やっぱり SLY DUMBER…どんだけ売れっ子なんだ。STEELY & CLEVIE も参加。DANNY BROWNE って人物は CLEVIE BROWNE の兄弟らしい。BOBBY "DIGITAL" DIXON もいるぞ。それと、シンガーが豪華。BERES HAMMOND、WAYNE WONDER が爽やかな声を聴かせてくれている。1曲で BUSTA RHYMES とコラボしている。コレと終盤に突然登場する「MAKE MY DAY」という曲だけがヒップホップレゲエヒップホップレゲエという種類自体が90年代前半の他にはほどんど聴けない、って意味では、こうした曲はある意味貴重。


●ジャマイカ国内では、この後も様々なパフォーマーが出現し、ダンスホールシーンは活況を極めていく。スラックネス、ガントーク、コンシャスネス、ラスタファリズム、様々な志向を持つアーティストを育てて行く。しかし、アメリカの音楽市場はこの1993年あたりを以てダンスホールレゲエにはさっぱり感心を持たなくなってしまう。次にダンスホールレゲエが熱くなるのは SEAN PAUL のブレイクする2002年だ。むしろその間の時期は日本の方がレゲエを大切に聴いていたような気がする。つーか、日本はレゲエ大好き大国だ。00年代のレゲエについては、また別の機会に。




●動画。
●TENOR SAW「PUMPKIN BELLY」。SLENG TENG リディムを堪能あれ。「かぼちゃのおなか」とは妊婦さんのオナカのことらしい。声だけじゃなくて、歌詞の内容も優しい歌なのかな。




●CHAKA DEMUS & PLIERS「MURDER SHE WROTE」。ジャマイカの街角の色彩がまぶしくて。シンプルなビートを埋め尽くすパワーの豊穣さ。




●YELLOWMAN「STRONG ME STRONG」。ヒップホップすらがまだ正体不明のローカルカルチャーだった時代の、レゲエミクスチャー。MATERIAL = BILL LASWELL の手腕。




●BOBBY KONDERS「MACK DADDY」。すげえなこんなレア音源まで YOUTUBE 経由で聴けるんだ。スリリングなニューヨーク・ヒップホップレゲエ。




●SUPER CAT「DON DADA」。BOBBY KONDERS によるヒップホップミックスで。ヒップホップレゲエはクールだ!




●BUJU BANTON「RED ROSE」。たぶんドラムプログラムが SLY DUMBER で、ベースが DANNY BROWNE。まさしくワイルドなダンスホールレゲエ。



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