さて、またまた今日も沖縄ツアーについて書いてみる。

●今回、2014年というタイミングで、沖縄を旅先に選んだ理由に対して。
名護市辺野古への米軍基地移設問題が、アタマのスミッコにあったのはマチガイナイ。
●わざわざ名護のリゾート、ブセナテラスを拠点にしたのも、名護という土地に興味があったからだ。

●基地の県外移転を主張してきた仲井真県知事が、安倍首相と会談して突然その主張をひっくり返し、いきなり辺野古沖合の海を埋め立てて滑走路を作ることを認めたのが去年12月。そして、その流れを受けての1月名護市長選挙では移設反対派の稲嶺氏が当選。普天間基地返還が滞る中、オスプレイ配備はどんどん進む。そして尖閣諸島が東アジア全体のホットスポットになってきたなどなど、一気にキナ臭くなる沖縄内外のビッグイシュー。今の沖縄って一体どうなってるの?

●ただ、問題のキャンプ・シュワブが見学出来る訳でもない。
●ソレ以前に、基地問題についてボクが語れるコトはなにもない。ナニも知らないからだ。
●ボクは、そんな立場の中途半端さを抱えて、家族で観光するわけだ。
●そして、旅の中で、より一層、ボクの沖縄に対する無知を思い知った。
●今ボクは何冊かの沖縄関連の本を読み、そんで検索をせっせと続けて足りない知識を補いながら、この数日の沖縄に関する文章をなんとか書いている。圧倒的にボクは沖縄を知らなかった。ショックなほどに。



ともかく、沖縄本島の西側に突き出た本部半島の突端、「美ら海水族館」に行くのである。
●で、ほんのちょっとだけ、沖縄の歴史のコト、とくに70年代の沖縄について考えてみた。

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世界最大級の巨大水槽に、悠々と泳ぐジンベイザメとマンタたち。圧巻だ。まるで映画の巨大スクリーンのよう。
●その中に、一際機敏に動くモノが。体長1メートル強のマダライルカ2頭がスイスイと水槽を駆け回っているのだ。こう見るとイルカは圧倒的にアタマがいい動物だと一目でわかる。他のサカナにアレコレチョッカイをかけて遊んでいるのだ。群れて泳ぐサカナたちをワザと追い散らしてみたり、ゆっくり泳ぐエイにまとわりついたり。まるで利発なイヌがドッグランで遊んでいるかのようだ。しかも、水槽の中の序列もちゃんと意識しているのか、ジンベイザメにだけはチョッカイをかけない。適度に距離を置いて遊んでいる。イルカショーのイルカは人間の指示に忠実なことで賢さを証明するが、ノビノビと遊ぶイルカの様子を他の種類の生き物とハッキリ比較出来る環境で見せるのも、スゴく説得力のある展示だと思った。

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●子どもたちも満足。娘ヒヨコは全ての水槽の生き物たちを、自分のカメラに収めてた。
●とくに砂地からぴょこっと顔を出すチンアナゴニシキアナゴがお気に入りだったみたい。

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●さて、この「美ら海水族館」「海洋博公園」という場所の中にある。
「海洋博公園」は77ヘクタールもある大きな公園で、水族館だけじゃなく、博物館や植物園、人工ビーチなどなど様々な施設がある。あまりに広いので電気自動車が園内をまわってるくらいだ。

そもそもでいえば、この場所は1975年に開催された「沖縄国際海洋博覧会」跡地。
●ボクは「美ら海水族館」に改装する前の、博覧会時代の名残であった水族館「海洋生物園」にも来たことがある。2002年2月という閉館ギリギリのタイミングだった。世界で初めてジンベイザメの生体飼育に成功した水族館という武名は子どもの頃からボクの中で大きく響いていて、30歳手前にもなってからやっと長年の念願を叶えたのだ。
●ただ、ジンベイザメは立派だったが、水族館そのものは実に陰気で薄暗い昭和テイストだった。ホントだったら古い水族館じゃなくて改装後の21世紀版の水族館が見たいと思ったもんだ。そして「美ら海水族館」は同年11月オープン。なんと偶然にもこのタイミングに沖縄出張があり、開館直後の「美ら海」にもボクは行くことができた。二代両方の水族館を同じ年に見る事ができたのだ。



さて、1975年の「沖縄国際海洋博覧会」って一体ナニ?
200px-Expo75_Logo.jpg(「海洋博」のマーク)

冷静に考えると「沖縄国際海洋博覧会」の時期って、沖縄返還直後でしょ。
沖縄返還は1972年。「海洋博」は1975年。ちなみに「大阪万博」が1970年。博覧会がオリンピックと同じようにその地域のインフラ整備や経済振興の起爆剤として機能していた時代、日本に返還されたばかりの沖縄に対して社会整備を行う意図がハッキリしているでしょ。実際、沖縄本島を縦断する沖縄自動車道(高速道路)、国道58号線、その他、空港、港湾設備などなど大型公共事業が動いたそうで。しかし、主導権はあくまで本土資本にあり、地元経済にとってはカラスベリの感も。性急な開発に環境破壊問題も発生。観客動員も見積を大きく下回り、博覧会閉幕後には企業倒産も続出。「海洋博後遺症」といった言葉もできたほどだという。結局、多くの沖縄県人にとっては、あまり親近感を持てないイベントだったようだ。
●ただし、沖縄の日本返還前は、本土との往来にもパスポートが必要だったほど。ココで初めて沖縄に観光産業が起こったといっても過言ではない。そんな転機となった出来事だった。終戦から27年も経って果たされた日本復帰直後の沖縄が戦後日本社会にメキメキと組み込まれていく大きな音がココで鳴っていたわけだ。

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●この写真は1975年当時の「海洋博」の様子。博覧会の目玉、海上都市「アクアポリス」が水上に浮いている。
「アクロポリス」「未来の海上生活のための実験都市」というコンセプトで作られた半潜水浮遊式の構造物。ここに40人のスタッフが暮らしてハマチやタイの養殖を営んでいたという。今検索してみたらプロデュースは手塚治虫だった。そんなレトロフューチャーな遺物は90年代に老朽化で封鎖。立ち入り禁止のまま、2000年まで鉄錆にまみれてこの海に浮かんでたという。ボクが2002年に訪れた時は、陸地とコイツをつないでた桟橋だけが残っていたような気が。



そんな沖縄70年代を描いた文章を読む。

新城和博「ぼくの沖縄<復帰後>史」

新城和博「ぼくの沖縄<復帰後>史」
●これは、那覇の本屋さんで見つけた本だ。沖縄返還を小学生時代に迎え、その後のほとんどを沖縄で暮らし、沖縄で出版/編集の仕事に関わってきた著者が、個人的な視点から柔らかいタッチで返還後40年余の歴史を振返る内容だ。この本を出版しているのも沖縄の会社。やはり地元でなければ出会えないモノがある。

●70年代の沖縄は、アメリカ統治下から日本社会への移行を歩む上で様々な混乱があったようだ。
まずオカネが変わる。今までドルで買い物してた生活が、突然日本円に変わる。1ドル=約300円の時代だ。帯コメには「小学四年生の僕は、一円玉の軽さに馴染めなかった」。1セントで買えたモノが1円では買えない。
自動車の交通ルールも違う。右側通行のアメリカルールから左側通行の日本ルールに変える瞬間のドタバタは大変なモノだったらしい。だって公共バスも全部ドアが左右逆向きのモノに入れ替えないとイケナイのだから。

●今やバラエティ番組の楽しいオジサンとして有名な元プロボクサー具志堅用高さんが、沖縄県の人にとってどんな存在だったかにも言及されてる。
1976年、彼は当時では史上最速のデビュー9戦目で世界チャンピオンになった。その後13回の防衛を果たし1981年に引退。沖縄県出身の世界チャンピオンというだけで地元にとっては輝かしい存在だったが、彼を特別なヒーローにしたのは、彼の発言だったという。彼は、その沖縄独特のイントネーションやボキャブラリーを隠さない(隠せない)男だった。結果、カンムリワシの異名を持つ鋭い戦闘能力とはウラハラな、素朴で愛らしいシマンチュの素顔を全国区に披露したのだ。「ちょっちゅね!」沖縄のユニーク過ぎる方言は、明治時代から差別の対象になっており、戦前戦中からアメリカ統治下においても県民に劣等感を植え付けてきた。こと日本復帰間もないこの時代では、高度成長期を躍進する本土社会からの「遅れ」を恥じてしまう時期でもあった。そこでこのヒーローの活躍である。沖縄の人々がどれだけ彼に励まされたことだろう。

●時は流れて、「美ら海」は今や沖縄最大の観光拠点となり、日本だけでなく近隣の外国からもお客が集まるようになった。しかし環境破壊は進行中で、埋め立てや人工ビーチの造成で沖縄のサンゴ礁はどんどん痛んでいる。リアルの「美ら海」はその美しさをどんどん損なっているのだ。そこに加えて、辺野古では大きな滑走路をサンゴ礁の埋め立てで作るコトになっている。ボクには、これがイイコトなのかワルいコトなのかワカラナイ。



さて、音楽。1975年の沖縄ハードロック。

75 88Rockday

VARIOUS ARTISTS「'75 8.8 ROCKDAY LIVE」1975年
「ぼくの沖縄<復帰後>史」では、70年代に続き、80年代90年代21世紀とその後の沖縄の変化について興味深い内容が続いている。音楽ファンであるボクにとっては90年代初頭に到来するオキナワンポップのブームについてもアレコレ言及されてて非常に興味深い。ただ、ちょっとその時代までワープするのはヤメておいて、今一度70年代にフォーカスを。

●このアルバムは「海洋博」と同じ1975年に大阪万博公園で行われたロックフェスのライブ音源だ。LP2枚組にたくさんのバンドの音楽を収録している。ココに沖縄出身のハードロックバンド・が出演しているのだ。については、1983年の再結成ライブ盤についてコチラの記事で書いてみた。しかしコチラはもっと貴重な音源だ。バンドにとって、このライブが本土上陸一番最初のパフォーマンスなのだ。当時の解説を読めば、沖縄・コザの街で毎晩米兵を前にプレイしてきたという彼らの伝説に本土のリスナーが畏怖を感じていた気配すら感じる。

●アタラメて言えば、彼らが拠点としたコザ市(現・沖縄市)は、米軍基地に隣り合う街である。アメリカからの影響は濃厚で彼らのようなバンドが育つ素地も十分だった。一方で、アメリカ兵による地元住民とのトラブルも大きなストレスになっていた。沖縄返還の直前1970年には「コザ暴動」という事件が起こる。アメリカ兵が地元住民を自動車でヒキ飛ばしたのをキッカケに、不当な取調べをさせないよう多くの住民が抗議、MPとの小競り合いから5000人規模の暴動に発展したのだ。一晩のウチに車両73台、関連施設3棟が焼き討ちにあったという。この年には主婦を轢き殺したアメリカ兵に無罪判決が出されてアメリカへの不信感がピークになっていた時期。そんな場所からやってきたハードロックバンドが、異様な存在感で受け止められたのは非常に納得がいく話だ。さて、コザは今でも独特のハイブリットな文化で魅力を放つ街だが、アメリカ兵が引き起こすトラブルは今でも沖縄の人々の心を都度都度で大きく傷つけている。

DEEP PURPLE に由来するその名前のとおり、その演奏は、端正かつ緻密なリフ・アンサンブルがブリティッシュ・ハードロック直系のスゴミを放っている。アメリカ留学帰りのリーダー・ジョージ紫が作詞曲を担うオリジナルの英詞曲もソリッドな疾走感と緊張感でビキビキ。シメは本家 DEEP PURPLE「HIGHWAY STAR」カバー。クール。本土上陸がこの瞬間なのだから、当然この段階で彼らは正式なレコードデビューもしていない。ファーストアルバム「MURASAKI」は翌1976年にリリースされた。ただし、本土の音楽業界に彼らは合わなかったのか、1978年に解散してしまうのだった。

●ちなみに、このアルバムに収録されている他のバンドについても少し言及。
山岸潤士スーパーグループ WITH 北京一・石田長生が、粘り腰の大阪弁ブルーズを展開している。山岸潤士山岸潤史とも書いてあるな…この人は日本のブルースバンドの先駆・ウエストロードブルースバンドのギタリストとして活躍、その後 SOO BAAD REVUE というファンクロックバンドで北京一らと共闘、90年代にはニューオリンズに渡って今でも現地のファンクバンドで活躍している傑物だ。石田長生は、ウエストロード SOO BAAD REVUE でこの山岸と組んでいた筋金入りのブルースマンで、 CHAR とも共演、二人のユニット BAHO 名義の「BLACK SHOES」という曲は今でもボクのお気に入り。1995年の阪神大震災の際には、ソウルフラワーモノノケサミットボガンボス・どんととともに現地・長田神社でフリーライブを行うなどしていたのを、わざわざボクは見に行っている(あれは震災一年後1996年だったけな?)。
●アマチュアバンドのコンテストという性質を持ってたこの「ROCKDAY LIVE」は、これっきりで消えてしまった?バンドが多い。その中でも、前半で素晴らしい存在感を放つ女性シンガーがいる。スターキング・デリシャスというバンドのボーカル・大上留理子(留利子?)という人だ。アマチュア部門でこのバンドは優秀バンド賞を獲り、彼女はボーカル個人賞を獲る。つーか SUPERFLY なんかメじゃない濃くのあるソウルボーカル。芯の強さがたまらんね。調べるとこの人はその後バンドが解散しても活動を続け、泉州弁のR&Bを歌い続けているという。
大阪を中心とした70年代のブルースシーンって、完全に勉強不足だわ。ウエストロードブルースバンド〜永井“ホトケ”隆、上田正樹とサウス・トゥ・サウス、それと、関西じゃないけどめんたんぴんも。まだまだ気になる未知の音楽が一杯だ。



●あと、もうひとつだけ。
●話題のキャンプ・シュワブの名前の由来、知ってます?沖縄の主だった基地についた名前は、あの大戦最末期の沖縄戦で戦功を上げた海兵隊員の名前からつけられているんですって。沖縄に大きく横たわる基地、キャンプ・ハンセン、キャンプ・コートニー、キャンプ・マクトリアス…。軍属・民間人合わせて18万人が死んだあの戦闘で、手柄を立てた兵隊の名前って…。あまりに悪趣味じゃないか…?



●さて、動画。
●今日はちょうどいい音楽が見つからないので、由来不明のドキュメンタリー映像で。
●「映像でつづる復帰30年」…70年代の沖縄の様子。








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