大江健三郎「沖縄ノート」

●今、読んでる本は、大江健三郎「沖縄ノート」
ボクは、本当に沖縄にハマっちゃったみたいだよ。


●最近は、沖縄旅行で見知ったコト考えたコトをシリーズでいっぱい書いてます。もう7つも記事を書いた。(それぞれの記事へのリンク:その1その2その3その4その5その6その7。)
そんで、本当しつこいようだけど、春休みの沖縄ツアーについて、またアレコレ書きます。
●加えて、それに関連する形で、ボクがあまりに無知だった沖縄史についても、トライするつもりです。
●ただし、太平洋戦争や現代の基地問題などなどに直結する近現代史までガッツリは踏み込めないと思う。
●とはいえ、甚大な被害を生んだ第二次大戦末期・沖縄地上戦の悲劇はどうしてもバックグラウンドに意識してしまう。もしこの無駄で無意味なボクのトライに付き合って下さる人がいるなら、この南国で20万人が命を落した大戦闘があったコトを常々イメージしながら、これからの文章を読んでみて下さい。
●自分でも着地点がよくわからない。どうなることやら。



●さて、今回の旅行ではタクシーを度々使ったので、タクシーの運転手さんとイロイロな話をすることができました。地元の人と移動の一時間前後を話をしながら過ごすというのは、なかなかオツなモノでありました。へー!という話が聞けたり、なるほどーと思うコトがあったり。
そんなタクシー運転手さんとのヤリトリをご紹介することから、始めてみます。


ボク:観光の人は海で泳ぎたがりますけど、沖縄の人って、実はそんなに海に思い入れがないですよね?
●食べ物も、豚肉とか牛肉が目立って、シーフードがそんなに目立ちませんよね。他の土地がやるように、鮮魚を推すわけでもなく、グルクンとかは丸揚げしちゃう。お祭りも、ハーリー以外はそんなに海と直接関係がないですよね。
運転手さん:そーですねー。ウチは子どもが三人おりますが、全員泳げませんわ。カナヅチです。小学校にプールがないのですよ。まあ、不便しませんけどね。

ボク沖縄では、おばあちゃんがえらいんですか?
●沖縄の人がオバアはスゴいみたいなコトを言うのをよく聞きますけど、いま通り抜けた集落、道歩いてたのマジ全員おばあちゃんでしたね。みなさん、杖ついたり、カート押したりしてるけど、見たトコロどこかにお店があって買い物に行くワケでもない。ただ散歩してご近所の人とお話してるだけでしたね。
運転手さん:そーですねー。オバアはみんな元気ですねー。いつも外に出て大勢の人とあっていますね。沖縄は女性が強いですよ。オジイはみんな家でゴロゴロしてるだけ。テレビみてお酒飲んでますわ。沖縄では、政治は男性が担いますがね、神事となれば女性が活躍します。だから、女性の方が大事というわけです。

ボク沖縄は、お墓が大きいですね。
運転手さん:そーですねー。ご先祖の墓参りの時には、親戚一同でお墓の前で酒盛りをするんです。いっぱいご馳走を作るので長男の嫁は準備で大変ですね。お墓は神聖な場所ですからね、幽霊やオバケは出ませんね。不気味な場所ではないんですね。沖縄中部では、お墓には長男しか入れない、次男三男は別のお墓を立てる、というしきたりがあります。他の土地はみんなで入りますけどね。

そーですねー。ってリアクションは、本土の人にはそんな風に思うんですか…今まで当たり前過ぎて考えたこともなかったけど、そういえばそうですねー。ってニュアンス。

ボク:あのー「ゆいレール」の駅にもなってる再開発エリアの「おもろまち」。あれってどういう意味なんですか?「おもしろいまち」ってコトですか?
運転手さん:わははは!お客さんオモシロいこというねー「おもろまち」「おもしろいまち」ねえ!「おもろ」はね、本土ではなんていうかねー、昔の歌というか、あ、古謡ていうんですかねー。「おもろさうし」という本がありましてねー。
ボク:それは…「万葉集」っぽいかんじのもの?
運転手さん:あー和歌とか俳句ともちがうんですねー。鎌倉時代くらいに謡われたものでしてね。沖縄に日本語のひらがなカタカナが伝わるのがその頃なんですよ。いやーそれにしても「おもろ」「おもしろい」っていうのは、オモシロいですねー!

ボク「おもろさうし」って?大学受験の日本史でやったかな?(ワイフ「ワタシは知ってたよ!だって国文学科だもん」)あのー、運転手さんはこうした沖縄の歴史のコトを学校で勉強したんですか?
運転手さん:いやいや、学校じゃやりませんよ。全部、大人になってから本を読んで自分で勉強しました。沖縄の勉強どころか、学校ではウチナーグチをしゃべったらセンセイに叱られたもんです。ワタシらの時代にはありませんでしたが(運転手さんは50歳代後半だろうか)、その昔は「方言札」というものがありましてね。学校で方言を喋った者には、罰としてこの札を首から下げさせたんです。「方言を喋ってはいけません、方言を喋る者は不良です」そんな言い方がされたもんです。両親がいなくてオバアオジイに育てられた子どもは、方言しか話せなかったので、その後今で言う登校拒否になってしまいました。方言が不良なのではなく、学校側が方言を不良に追い詰めたんですわ。あれは、よくないですねー。(後で調べてみたら「方言札」は戦後1960年代あたりまで一部の地域では使われてたらしい)
ボク:…ああ。そんな時代があったんですか…。今の若い子はウチナーグチしゃべれるんですか?
運転手さん:古いオバアがしゃべってる本当のウチナーグチは難しいでしょう。ワタシは勤め人として一度東京に出て、バブルがハジケて沖縄に戻ったモンですから、ワタシの子どもはウチナーグチはわかりません。まー今はウチナーグチを残そうって運動もありますからね。ただ本物というわけにはいかんでしょうねえ。


●このタクシーの運転手さんとは、他にもアレコレ楽しい会話をしたんだけど、クルマを降りた後で、ヒドいバツの悪さを感じてる自分をボクは発見したのでした。
「ボクは、沖縄のコトを何も知らない」
●沖縄を訪れた回数では6回目、観光/出張アレコレの縁があって、それなりに地元の人とも接した場面もあったのに、結局重たい話題は回避してきたのだ。沖縄が抱えている伝統と歴史の積み重ね、本土とは違うバックグラウンドとアイデンティティ、そしてその延長にある様々な社会問題。そしてアメリカ軍基地問題。正直、ボクはアメリカ軍基地問題といったビッグイシューにイイもワルいも口が出せるほどの基礎的な見識もない。なくても不便しない暮らしをしているからだ。だが、ココの土地の人は否応なくその問題を突きつけられている。知らぬ存ぜぬでは済まされないのだ。そのためなら自分で勉強もするし、土地のこと歴史のことを深く考えたりするのである。
ボクに出来ることはとにかく、その基礎の基礎である沖縄史ってヤツに、ほんのちょっとでも触れてみるってことだ。まずはココから始めたい。


●とりあえず「おもろまち」&「おもろさうし」についてスッキリさせておこう。

「おもろまち」

ゆいレール「おもろまち」駅。
●那覇市の真ん中、那覇空港から首里までの間にモノレール「ゆいレール」が開通したのは2003年。2005年に沖縄を訪れたボクは、この新しいモノレールとその車窓から見える新しい視点からの那覇の風景にホエーっと感動したもんだった。沖縄独特のコンクリート建築や川、起伏ある地形、緑などなどが新鮮で美しかった。駅の名前は見慣れない地名ばかり。その中でも目を引いたのが「おもろまち」という駅。ここだけ全部ひらがなだしね。目立つ。
●このエリアは「那覇新都心」という名前で再開発が進められている地域だ。写真にも写っているように、駅のソバにはDFSギャラリアがあってキラビやかなブランドショップを備えている。その奥にはシネコンを備えた大型モール・サンエー那覇メインプレイスがあって、さらにその先には沖縄県立博物館・美術館がある。TSUTAYA GEO もあった。どれもこれも2003年以降に整備された新しい施設ばかりだよ。

●しかし、そもそもで言えば、1953年にアメリカ軍によって強制収用され、以来基地/住宅利用されていた場所。これが長い時間をかけて1987年にやっと全面返還される。ここから再開発の都市計画が作られ、ここまでやってきたというワケ。
●とくにDFSギャラリアのお向かいにあるちいさな丘は、沖縄地上戦の中でも大激戦地として知られる「シュガーローフ/安里五二高地」だ。アメリカ軍はココの一週間の戦いだけで2662人の死者を出し(沖縄戦全体の戦死者の約20%)、1298人もの兵士が精神疾患を患って専用の病院が立てられたほどだという。日本軍側は記録すら残っていない…死者は数千人とか。いまでは大きな配水タンクがあるだけだけど、沖縄の風景には、一皮剥くだけでこうした底暗い歴史が浮き出てくる。

●そして「おもろさうし」
「おもろまち」は公募で決まった名前だそうで、ボクのような無知な人間から見たら、ピカピカ楽しそうな印象を感じさせる。ただ先ほど書いたように「おもろ」「おもしろい」とは関係なくて、「おもい=思い」から由来する言葉。そんな人々の思いを込めたウタを束ねたモノが「おもろさうし」という本だ。沖縄(&奄美地方)各地で、特に12世紀から17世紀にかけて作られた歌1554首が集められている。沖縄各地に有力者が現れて、その中から琉球王朝が誕生、そして周辺諸国と活発な交流交易を重ねて独自の文化を発展させた時期に作られたウタがメインとなっており、その意味で沖縄史を調べる大事な手がかりにもなっている。

ユーカラ・おもろさうし (新潮古典文学アルバム)沖縄の歴史と文化

村崎恭子・池宮正治・吉本隆明「ユーカラ・おもろさうし(新潮古典文学アルバム)」
外間守善「沖縄の歴史と文化」
●さっそく、那覇の街の古本屋さんで発見した本。「ユーカラ・おもろさうし」序説の部分は吉本隆明が担当。日本の南北辺境の言語文化をセットにしてる感覚が象徴的。吉本隆明に言わせれば、「おもろ」「歌謡の形で、つまり韻文で書き記された寿詞とか祝詞とか呪詞のたぐい」ということだ。様式としては五七五七七みたいなリズムじゃなくて、八八八六みたいなリズム。神様や王様を讃える内容がメインだが、ここから「琉歌」そして今知られる「沖縄民謡」へと進化が始まる。沖縄を代表する民族楽器・三線は中国から15世紀以後に移入されたもの。これが「琉歌」の伴奏楽器になるのはさらに下って17世紀頃になるらしい。今ボクらが聴く島唄の源流と捉えればいいのかな。あ、言い添えると、三線が日本本土に伝わって三味線になり、江戸時代の浄瑠璃などの伴奏楽器に進化する。沖縄こそが元祖ってこと。


沖縄の古代史&中世〜近世史。それと首里城の見学。
そもそも、沖縄はいつから日本の中に含まれるようになったのか?

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首里城。14世紀後半から1879年まで王府として機能した拠点。
●実は、首里城に行きたいと一番コダワったのは娘ヒヨコだ。ヒヨコは自分の宝物の一つとして「2000円札」を持ってる。20ドル札を意識して発行されたという2000円札、今じゃトンと見かけない激レアアイテム。アレはデザインとして源氏物語絵巻首里城守礼門が描かれているのだ!ということで、ヒヨコにとっては宝物の現物がここ首里城にあるというわけだ。そんで、お気に入りのヌイグルミ・ベリたん&ムサシくんを入れ込んだ守礼門の写真をワザワザ撮影してるのであった。

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●さて、首里城といえば、ちょいと年配の方には「日本ガッカリ名所」のトップと言われてた物件だ。
●名高い琉球王朝の首府として700年の歴史がある、という評判に比して、実際現地に来てみるとこの守礼門しかなかったのだ。ボクが初めて沖縄を訪れたのは1983年頃の小学生の時。その時もこの首里城については「ふーん」程度の記憶しか残ってない。80年代までは、ここにはなんにもなかったのだ。
●ただし、現在においては、立派に復元がなされている。城を二重に取り囲む大きな城壁に、数々の門、そして真っ赤に塗られた王の居殿と、紅白のストライプがマブしい前庭。中は琉球王朝の歴史を説明する展示が並んでおり、更なる復元工事が今だに続いている。

●実は、この王宮を完膚なきまでに破壊してしまったのは、やはりあの沖縄地上戦だ。日本軍沖縄守備隊はこの首里の地下壕に司令部を設置。アメリカ軍はココを陸海空から徹底的に攻撃した。その後、ココには琉球大学が設置され、さらに城址は台無しに。1958年、県民の悲願かなってやっと再建されたのが例の守礼門だったのだ。…そう思うと、「日本ガッカリ名所」だなんて言い方はとっても失礼だったなと深く反省するのです。
●1972年の沖縄返還を経て国の史跡に指定され、1989年から本格的な復元作業が始まる。1992年に「首里城公園」がオープン。1993年にNHK大河ドラマ「琉球の風」の撮影にも使われたそうな。2000年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一部として世界遺産に登録。同じ年の沖縄サミットに合わせて、守礼門を刷り込んだ2000円札が登場。そんで2003年生まれのチッポケな女子ヒヨコに「行きたい!」と思われる場所になって、2014年の今年。
ケツメイシがアルバムジャケットのほぼ全てをこの首里城で撮影している、って話は別の記事にもしたっけ。多分下の写真の階段の下あたりで4人のスナップを撮影しているようだ。これを現地で思い出していたら、同じ画角で記念撮影をしてきたのにな。

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ケツメイシと首里城

(参考までに「ケツメポリス6」。背景が首里城。なんのコダワリがあるんだろう?)


さて、その首里城に栄えた琉球王国って?

ジュニア版 琉球・沖縄史-沖縄をよく知るための歴史教科書

新城俊昭「ジュニア版 琉球・沖縄史-沖縄をよく知るための歴史教科書」
●那覇のゆいレール牧志駅と繋がる新しい建物「さいおんスクエア」「宮脇書店」というお店があったので、そこに平積みになってたこの本を買った。ボクはもう「ジュニア」の気持ちになって、更地から沖縄史を勉強したいと思ったわけ。この本が本当に学校で使われてるかどうかはワカラナイけど、「本土」資本の書店チェーンで平積み扱いなのだから、それなりにポピュラリティはあるんだろう。
●で、これを通読してみて。いわゆる「日本史」と沖縄が積み重ねた歴史が大きく違っているコトにとにかく驚いた。そしてそれ以上に、沖縄が日本に組み込まれた道程がスムーズなモノではなかったコトに、初めて気づいて大きく驚いた。

●ここから先は、ちょっと教科書的な内容が続くから、退屈だったらゴメンナサイ(すでに退屈か…)。



<沖縄の先史時代>:「日本史」の縄文時代〜平安時代は「沖縄史」にはない。

●沖縄は、大和朝廷の勢力下にあったわけではないので、「日本史」の中大和時代から奈良〜平安時代までの歴史の動きにはほどんど影響されません。「沖縄史」を区切るとき、縄文時代〜平安時代は、無視されます。
●もちろん「日本史」において稲作文化を根付かせた弥生時代もありません。弥生式土器といった発明は沖縄に伝来しましたが、稲作文化そのものは沖縄には定着しませんでした。沖縄で稲作が普及するのは「本土」にグッと遅れた12世紀のことです。それまでの沖縄の人々は、漁労/狩猟/採集を軸にした生活を営み、貝塚を作っていました。この長い先史時代をこの教科書では「貝塚時代」と呼んでいます。
●宮古・八重山地方は、「本土」とシンクロした沖縄本島ともまた異質な文化圏に属していました。むしろフィリピン以南の太平洋文化圏として、土器を用いない生活を12世紀まで続けていたようです。

●沖縄本島には縄文土器の技術が伝来していたので、九州経由で日本からの人口流入は絶えずあったのでしょうが、同時に往来は中国大陸や南方ともあったようです。中国の古代王朝・(〜紀元前1100年)の遺跡からは宮古島産のタカラ貝が宝飾品として出土しています。春秋戦国時代に栄えた中国北方の地方政権・(紀元前4世紀)が鋳造した明刀銭という貨幣が沖縄だけで出土しています。これは「本土」でもまだ発掘されていないもの。先史時代の沖縄が、日本だけでなく中国、東南アジア島嶼部のネットワークの中にあったコトがわかります。


<古琉球〜大交易とおもろの時代>:中国・明政権との結びつきと国際貿易。

●12世紀、稲作をはじめとした農耕文化が日本列島から伝来した結果、農業を運営ための集約的労働を支える共同体から「按司」と呼ばれる豪族たちが生まれました。こうした有力者の群雄割拠を経て、北山/中山/南山の三大勢力が拮抗する「三山時代」、そして「中山」勢力による島内統一琉球王国の成立を迎えるのがこの時代です。
尚思紹(しょう・ししょう)・尚巴志(しょう・はし)父子から始まる尚氏王統琉球王国が島内を統一したのは1429年のこと。一度のクーデターで第二尚氏へと王統はスイッチしますが、王国は結局400年以上存続します。
ユネスコに登録された「琉球王国のグスク及び関連遺跡群」はこの時期に作られたものが中心。各勢力が各地に作った城(ぐすく)、そして首里城がこれに含まれています。農耕社会の成立と有力者たちのグスク建築、そして琉球王国の統一から、沖縄は歴史時代に入ります。ここから17世紀までの時代を「古琉球」と呼んだりします。

琉球王国成立を待たずして、沖縄の人々は積極的に海外へ出て交易を始めます。1368年、中国に王朝が成立。は周辺国家と君臣関係を結ぶ「冊封」政策を進め、交易を奨励します。沖縄の各政権は競って明の「冊封」を求め、最先端の文物/文化の取得に励みました。尚氏の琉球王国は明滅亡後の清代まで、そして最後の琉球国王・尚泰の治世まで「冊封」関係を維持し、公費/私費留学生を中国に数々送り込みました。中国から多くの渡来人が沖縄に移住し、交易や外交のノウハウを伝授。福建省から伝わった技術を元に泡盛の製法も確立。泡盛を入れる陶器の技術も発達。三線が伝来しました。
●日本からは禅宗が伝来。僧侶たちが知識人として働き、日本の文字や文学が伝わります。おもろが謡われた時代もここに重なります。

を中心とした「冊封」体制は、李氏朝鮮、ベトナム、そして日本(足利義満「日本国王」を名乗って勘合貿易を実施してましたね)をひっくるめて、東アジア全域に交易ネットワークを形成します。この秩序の中で琉球王国は中継貿易を積極的に推進します。諸国の中で明に対する朝貢回数は琉球王国はダントツのトップ、二位のベトナムの2倍近くにものぼりました。さらに、その交易相手は中国に留まらず、日本、朝鮮、ベトナム、インドネシアのマラッカ王国/ジャワ王国まで進出。当時の最大貿易相手国はなんとタイ・アユタヤ王朝この時点で、琉球王国は完全な独立国として、東アジア全体で活躍していました。

●なお、尚氏王統に先行して存在した12世紀の中山王統の始祖・舜天は、保元の乱で敗北し伊豆大島に流された源為朝の息子だった、という伝説があります。源為朝は、鎌倉幕府を開く源頼朝の叔父にあたる人物。伊豆大島から脱出しようとして遭難、沖縄まで流されたトコロで土地の女性との間に出来た子どもが琉球王国の始祖・舜天という人物になった、というもの。「南総里見八犬伝」滝沢馬琴「椿説弓張月」という本にしたので江戸時代には非常にポピュラーな考え方になりました。琉球王国の起源が清和源氏を介して日本の天皇家と繋がっているという言説は、その後「日琉同祖論」という日本と琉球の一体化を進めるイデオロギーとして大いに利用されます。

今帰仁城桜まつり

今帰仁城跡(なきじんじょうあと)。首里城とともに世界遺産に認定された城跡で13世紀頃「北山」勢力の拠点だった場所。
●ここは沖縄の桜の名所としても有名な場所で毎年「今帰仁グスク桜まつり」という催しも行われている。2005年の旅行でココを訪れた時にその見事な咲きっぷりにボクは感動してしまった。ところが沖縄では桜シーズンは1〜2月。おまけにソメイヨシノではなくカンヒザクラという種類で花の色もちょっと違う。だからノー知識で現地を訪れたボクはその時見たモノを「梅の花的なもの?」とずーっと勘違いしていた。そのマチガイを正してくれたのは、またしてもタクシーの運転手さんだった。さらに豆知識も。「沖縄のカンヒザクラは、北部から咲き始めて南に広がっていくんです。桜前線北上っていいますけどね、沖縄では逆なんですよ」



<薩摩入り〜島津氏の侵略>:「外国」のまま徳川幕藩体制に組み込まれる王国。

●豊臣秀吉の朝鮮出兵への対策やモンゴル〜北方の女真族の活発な動きに揺さぶられて、16世紀末の中国は不安定化、1644年に明王朝は倒されて清王朝と交代します。この頃には中国人自身の海外貿易への規制がなくなり競争が激化。さらには大航海時代を迎えたヨーロッパ勢力もアジア地域に進出。強力な競争相手の登場と明王朝という後ろ盾の喪失に、琉球王国の交易ビジネスは一気に衰退しました。これが16〜17世紀の出来事。

●一方で、日本との貿易チャンネルとして友好関係を保っていた薩摩・島津氏が琉球王国に侵略的干渉を始めます。琉球貿易の独占と領土的野心が目的でした。辺境の外様大名であった島津氏は、中央の豊臣秀吉徳川幕府との有利な関係を構築するためにも、琉球王国を自分の支配下に置きたかったのです。最終的に1609年、島津氏は琉球王府を武力制圧。奄美大島以北は島津氏の直轄領土へ編入、琉球王国は幕府公認で島津氏の支配下に入りました。
●ただし琉球王国はあくまで独立国としての体裁を整えて、明との柵封関係を重視(後に清)からの使者が訪れている間は島津藩関係者を隔離するなどして、中国・日本との二重外交を名目上成立させるなどの腐心をしなければなりませんでした。幕府はそのような琉球王国の立場を容認しましたが、それは敢えて琉球を「外国」と見立て、それを属国として支配しているという体裁を幕府の権威付けに利用するような発想にたったものでした。こうして沖縄は「外国」のまま幕藩体制に組み込まれるのです。

●結果として日本との結びつきが強くなる中、その影響を受けた官僚組織や身分制度、法律や税制度が整備されました。島津氏の搾取や経費のかかる中国(明から清に移行)との朝貢関係の維持のため、財政は常に逼迫し、一般庶民の暮らしは常に苦しいものとなっていきました。本来から広い農地に恵まれない沖縄、ここに悪名高き人頭税や、横行する役人の横暴や汚職がのしかかり、階級格差はどんどん激しくなっていきました。沖縄は豊かな南国ではなかったのです。

●当時の農民の主食はイモでした。1605年に中国から苗がもたらされ、その後各地に普及しました。これが島津氏経由で日本にも伝わるのですが、ここで名前が変わります。サツマイモです。薩摩経由だからサツマイモですが、沖縄から見れば、それはただのイモなのです。

琉球人行列彩色

葛飾北斎「琉球人行列彩色」(部分)。「江戸上り」と称した琉球王国からの朝貢使節団の様子。琉球王国のエキゾチックなスタイルは、当時の日本人には非常に珍しい風俗に見えたに違いない。



<明治維新と琉球処分>:日本への正式な編入。王国解体と「沖縄県」の設置。

●1968年に成立した明治政府は、日本国内においては廃藩置県を行い封建的幕藩体制を中央集権体制へシフトしていきました。ただし琉球王国は名目上「外国」のままで、名目上は中国・清が宗主国。そこで、まず明治政府は、中国・清朝の反発を避けながら日本の領土へ正式に編入する工作を進めます。まずは即座の王国解体を避けて「琉球藩」を設置、琉球国王「藩王」と定めました。また琉球船の遭難者が台湾人に殺される事件を国際問題化し台湾へ出兵。この戦後処理で清から琉球が日本の領土である言質を引き出しました。

●1879年、対外的な地固めが出来た状況の中、明治政府「沖縄県」設置を強行。最後の国王は華族として東京在住を命じられました。これを廃琉置県/琉球処分といいます。王国存続を願う人々の中には清に亡命、王国復活の支援要請を運動するものもいました。これを脱清人といいます。ただし彼らの中には、王国存続による既得権益を守ることだけに執心していたものも少なくありません。一方で、腐敗した王国の官僚組織に苦しめられる民衆のためには日本の新体制に入ることがよいと考え、積極的に政府を支援する人もいました。

●ただし清はこの沖縄県設置を黙って認めた訳ではありません。そこで元アメリカ大統領・グラントの仲介で清の高官・李鴻章とこの問題を解決するための秘密協議が行われました。ココでの日本側の提案が驚くべきものでした。「沖縄諸島は日本領/一方で宮古・八重山諸島は清国領/清国内で日本人が欧米並の商業活動が出来るよう、日清修好条規に条文追加する」に対する不平等条約を強化する代償に宮古・八重山諸島を割譲するというプランを日本が提案したのです。明治政府が沖縄をその程度の外交的交換物にしか見ていなかったというコトを象徴した出来事です。この提案はむしろ側が躊躇したことでウヤムヤになり、そのまま日清戦争に突入することで沖縄の帰属はすべて日本というコトになりました。すんでのところで日本の国境線は大きく書き換えられたかも知れなかった事件です。

琉球分割案

1880年に日本と清の間で協議された琉球分割案(「ジュニア版 琉球・沖縄史」より引用)。
日本側が不平等条約への条項追加を条件に、宮古島以西を清に割譲するという提案をしたとは正直驚きました。一方の清は、沖縄本島に琉球王国の存続を主張しましたがこれは即座に日本が却下。結果、日本案で両国合意まで段取りは進んでしまいました。清は琉球王国の復活は宮古島以西でやればいいと思っていたようです。ただし、条約改定のレベルで清が難色を示し、最終的な調印まではなされませんでした。親清派の琉球知識人も琉球分割には反対して清国内で動いたこともあり、1894年の日清戦争までこの合意は実現せずに済みました…日清戦争で、日本は台湾をも支配下に治めるのですが…。
●しかし、この経緯が現代中国の領土観に影響を及ぼしているとも言えそうです。そして尖閣諸島は、宮古島以西に位置しています…。



<近代の沖縄>:沖縄の近代化、日本化、皇民化。

「沖縄県」発足直後の県政は、既存の有力階級を懐柔するために過激な改革は控えるものでした。親清派勢力が残存する中では、こうした有力者の既得権益を損なわない方がよいという判断です。そのため、農地改革といった近代化政策はなかなか行われず、庶民の暮らしはよくなりませんでした。農民にやっと土地所有が認められたのは日露戦争直前のことで、それまで士族は租税を免除されていたほどの社会的不均衡が放置されていました。
●一方で行政官僚や教員、商人などが「本土」から大勢沖縄にやってきました。彼らによって沖縄経済は発達しましたが、結果としては本土由来の資本が利権を独占する状況も出来上がりました。県令/県知事をはじめ行政の中枢も本土出身者に独占されていました。中には沖縄文化に無理解だったり露骨な差別意識を持つものも少なくありませんでした。「風俗改良運動」と称して様々な沖縄古来の習慣が消えていきました。

沖縄県政が特に力を入れたのは教育分野でした。ウチナーグチを標準語に改めるのが急務とされたのです。そして日本人としての自覚天皇への忠誠を若い世代に植え付けることが重要とされました。これまでの歴史の経緯を見れば、沖縄に標準語の素地や日本人としてのアイデンティティ、天皇への忠誠心はあるはずがないのは当然のことですが。
日清戦争の後、1898年には、沖縄にも徴兵令が適応されました。帝国主義的競争が激化して、近代軍隊の育成は日本全体の問題であったからです。沖縄から徴兵された兵隊は、日露戦争ではその一割が戦死するほどの奮戦ぶりを見せました。なぜならば、標準語がしゃべれない沖縄出身者は、軍隊の中でも侮蔑/差別されたので、自らが皇国臣民だということを証明するためには戦場で体を張るほかなかったのです。

●沖縄には、「本土」からの差別意識/「本土」に対する劣等意識を跳ね返すには、「本土」並みの近代化/皇民化を果たすことで克服できると考えたものも多かったのです。本土人による差別への異議申し立ては様々な場面で行われました。「普通語すら使えないくせに英語まで学ばなければならない不遇にいる」と差別感情丸出しの方針で英語教育を廃止しようとした中学校校長の解任を求めて6か月ものストライキが敢行されました。しかし一方で同じ校長が編成した日清戦争への義勇団に中学生たちが率先して参加したのも事実でした。
●1903年大阪で行われた「勧業博覧会」(万博のようなもの)に設置された「人類館」という施設では、中国人や朝鮮人、インド人などなどと並んで「琉球人」が見世物として展示されました。まるで動物園の動物のような扱いに沖縄論壇は展示への抗議をしましたが、同時に「琉球人が台湾先住民やアイヌと同一視され、劣等種族とみなされるのは侮辱」とも述べていました。ここに沖縄の「本土」に対する歪んだ同化意識が見て取ることができます。

●一方で、沖縄の中から社会改革の動きが発生したり、それを支援する本土人も現れるようになりました。宮古島の農民を苦しめていた人頭税の撤廃運動は、沖縄本島出身の城間正安と新潟県出身の中村十作によって始められました。既得権益を守る有力層へ農民の異議申し立ても活発になります。旧態依然とした社会構造と横暴な県政を変えるため、沖縄から国会議員を出せるよう民権運動を展開した謝花昇が登場、東京で彼を支援する人物も現れます。沖縄から国会議員が出せるようになったのは1912年。しかし、その実現を待たず謝花昇は病没していました。あまりの抵抗圧力に精神を病んでしまったのです。
●沖縄独自の文化を研究する「沖縄学」が起こるのもこの時期です。中学校長解任ストライキで放校された学生の一人だった伊波普猷(いは・ふゆう)は、その後東京帝国大学を卒業して、沖縄文化の研究と啓蒙に尽力し「沖縄学の父」と呼ばれるようになります。1921年、日本民俗学の創始者・柳田国男が沖縄を訪問、沖縄が日本文化において重要な地域であることを著書で主張していきます。

●さて、1923年の関東大震災、1929年の世界恐慌と、日本全体が厳しい不景気に覆われる時代が到来しました。租税を現金で納めるようになってから、換金作物であるサトウキビへ農業の中心がシフトしていた沖縄は、砂糖価格の暴落で壊滅的な打撃を受けました。農民はイモすら食べることが出来ず、ソテツを食べたといいます。本来有毒植物であるソテツは調理を誤れば命を落します。これが「ソテツ地獄」です。
●この「ソテツ地獄」に押し出される形で、沖縄から多くの人々が海外へ移民しました。この時期はなんと海外移民が県人口の一割にも及んだといいます。彼らはハワイをはじめ、ペルー/ブラジルなどの南米、フィリピン/シンガポールなどの東南アジアに向かいました。



これから先は、近代日本にとって一番不幸な時代となります。
●1931年、満州事変。ここから日本と中国は泥沼の戦争へ突き進みます。そして太平洋戦争へ。
太平洋戦争において、沖縄では激しい地上戦で20万人もの人々が命を落します。
●これは大きな、大き過ぎる問題なので、また別の機会に触れることにしましょう。


ただ、沖縄が日本の中でも特殊な歴史を持つことがわかりました。
●が故に、沖縄の視点に立てば、日本は違った形に見えることも明白です。日清戦争で日本への帰属が確定したとするならば、沖縄は日本になってからまだ120年しか経っていないのです。しかもその内の1945〜1972年はアメリカの軍政化にあったワケで。

しかし「沖縄は日本ではない」という言説は、暴論だと思います。
日本は、一体的な歴史を持つノッペリとした国ではありません。当たり前のように、それぞれの土地がそれぞれ固有の様々な歴史を持っています。沖縄は沖縄の特殊性を持ちますが、その他の土地もそれぞれの特殊性を持つ。北海道、そこに先住民として暮らしていたアイヌの人達。原子爆弾の攻撃を受けた広島・長崎。伝統的なイルカ漁が海外の団体から批判されている和歌山県・太地町。東日本大震災から原発事故という災厄を未来にわたって背負ってしまった福島県。それぞれが様々な視点から日本という国、そして世界全体を眺めています。
沖縄県の人々が共有する記憶や伝統、そしてその経緯からつながる現在の状況に立脚して、個別ユニークな意見を発信するのは、特別なコトではありません。そしてそうした多様な意見を発信してよいのが、この日本の制度や法律、そして風土の美点です。ボクは、沖縄をより深く知り、そこから発信されるメッセージを深く読み取りたい。同じ日本という国を構成する一員として、お互いの立場を理解したい。まずその前提となる心構えだけが、なんとか整った、と思っているところです。

ボクは「本土」という言葉に違和感があって。
●東京に暮らすボクは、これまでこの言葉に違和感を感じていたわけではありません。ただ、タクシー運転手さんたちとの会話ではこの「本土」という言葉が、なにかニガいニュアンスを持っていると感じて使えなかったのです。タクシー運転手さんたちも、「本土」からの観光客丸出しのボクにこの言葉を一度も使いませんでした。
「本土」と言った瞬間に、「沖縄」対「それ以外の日本一般=本土」という構図が出来てしまうのです。この言葉は、まるで沖縄を日本が疎外しているかのような言葉だと、ボクはタクシーの助手席に座りながら、ハッと気づいてしまったのです。それに気づいて、とても恥ずかしくなりました。「沖縄」対「本土」の構造で、馴れ馴れしく沖縄ステロタイプな話題を無礼に運転手さんにフッてしまってたかもしれない。「そーですねー」と運転手さんは軽く流して飲み込んでくれたのかも知れない。恥ずかしい。だから、歴史を勉強したいとボクは思ったのです。
●一度気づいてしまえば「本土」という言葉を使わないのは簡単なコトです。ボクはボクが暮らしアイデンティファイする土地「東京」という言葉を使えばイイんですから。沖縄と東京を比べればイイ。「沖縄以外の日本一般=本土」なんてデカイ概念の責任は持てないけど、東京の生活についてボクは責任を持てる。
「沖縄のしゃべり方はゆっくりしてるんですかね〜?」と運転手さんに聞かれた時には「すんません、ぶっちゃけて言えば東京と比べれば大分ゆっくりです!ただ、東京より大阪はもっとハイスピードですからねー」なんて応えてみました。運転手さんも「大阪の人が来たら誰も太刀打ちできないってことねえ〜」と笑ってました。
●今日の文章にも「本土」という言葉はいっぱい使われますが、そんな意味を込めて極力「」をつけています。



●音楽の話をしよう。

鳩間可奈子「太陽ぬ子(てぃだぬふぁー)」

鳩間可奈子「太陽ぬ子(てぃだぬふぁー)」2008年
●琉球王国の国王は「太陽(てだ)」を象徴していたという。「おもろさうし」の中でも国王は「てだ」と呼ばれている。偉大な人物はみな太陽の霊力を持っていて、その最上級が国王にあたるというわけらしい。琉球王国においては、仏教も神道も熱心な宣教師が伝えたキリスト教でさえも、結局のところ民衆の心を掴むにはいたらなかった。基本的には、この太陽信仰と、妻や姉妹が夫や兄弟を霊的に守護する「をなり神」信仰が組み合わさっているらしい。

●ただ、この音源においてはそんなメンドクサイことは考えなくてもイイみたい。彼女、鳩間可奈子さんのこの明るい笑顔、そして爽やかに響く歌声だけで、もう十分説得力がある。彼女が「太陽の子」だ。
ネーネーズのライブを見た「ライブハウス島唄」で購入したこのCD、ネーネーズのプロデューサーであり、自身も沖縄音楽の担い手として70年代から活躍する知名定男さんが、この鳩間可奈子さんもプロデュース。その出会いは彼女が15歳の時、子供の頃からオバアの影響で民謡に親しんでいた彼女の歌を、彼女が暮らしていた鳩間島をテレビの企画で訪れていた知名氏が発見、そのままシングルデビューしてしまったという。いわば天才少女だったというわけだ。18歳でアルバムもリリース。…鳩間島には鳩間さんがいっぱい住んでるのかな?島の名前が直接の姓ってステキだね。

●そんな彼女も大人になって、25歳の時のセカンドアルバムがこちら。直球ストレートな八重山民謡が半分くらいだけど、知名定男提供のレパートリーもボクの耳には完璧なトラディショナルに聴こえて区別がつかない。ナニゲにポップスとの融合に取り組んでたネーネーズとも違い、高純度の島唄を真っ正面に捉えているのが彼女の音楽。師匠・知名定男の渋みが効きまくった声と、彼女の澄み切った声が交換される「ゆんたしょうら〜こいなゆんた」は、全く歌詞が理解出来ないのに気持ちよく耳に染み渡る。三線の歯切れのよさも心地よい。純粋民謡由来のムダのないアレンジは、彼女の声へフォーカスをキチンと合わせてくれる。古典の洗練美と素朴さが美しくて、何回でも聴けてしまう。最近のボクの癒しの1枚ですわ。

鳩間島をロケ地にした2005年のテレビドラマ「瑠璃の島」は、成海璃子ちゃんの鮮烈デビュー作(当時12歳!)として、そして故・緒形拳さんの晩年ワークスとして、ボクの中で結構重要作なんですが、この時の璃子ちゃんの三線指導がこの鳩間可奈子さんだったはず。ウロ覚えだったんだけど、さんざん検索してウラが取れた。ドラマの中では「鳩海島」って名前になっちゃってるんだけどね。
●そんで今では、鳩間ファミリーというバンドとして、お父さんお母さんお兄さんと一緒に演奏したりしてるという。facebookページを見ると、なんか楽しそうな仲良し家族!



●動画。
●鳩間可奈子&ファミリー「太陽ぬ子」。お父さんとお母さんと一緒に演奏。








●ここまで、こんなブログを読んだ人は、ちょっとスゴいと思う…。ヒマ過ぎますよ。
●この文章を準備するのに2週くらいかかったんだけど、全然おもしろくならなかったもんね。
●誰もいないと思うんですけど、もしそんな人がいるならば、拍手ボタンを押してみて下さい。
●これ、もし拍手がついたら、さすがにボク自身がビックリする…。

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