ムナクソ悪くなるニュースがあったので、記録しておきたい。
●この夏休みにあわせて開催されている東京都現代美術館「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」展において、芸術家・会田誠さんの作品が、市民からのクレームと東京都の判断として、撤去要請がなされた、という話。
●そんでね、先に言っちゃうと、そのクレームってのが「友の会会員一名」だけだっつーのよ。一体なにそれ?

●ボク自身は会田誠さんを知った90年代から、彼と彼の作品のファンだ。
●彼の作品には、一見すると、際どいエログロ表現も登場するし、微妙にポリティカルな領域に手を突っ込むこともある。圧倒的な迫力を持つ作品もあれば、意図的に粗末な造りを採用する作品もある。その一方で奥行きの深いユーモアを備えている。がゆえに実に知的で、スリリングな作風を持った人物だと思っている。


●まず第一報としての、朝日新聞の記事を引用。

会田誠さん作品に改変要請 美術館、子ども向け企画展で 
(朝日新聞デジタル2015年7月25日12時56分)

 東京都現代美術館(東京都江東区)で開催中の子ども向けの企画展で、現代美術家・会田誠さん一家による文部科学省への批判を書いた作品について、館側が会田さんに改変などを要請していたことが24日、わかった。子どもにふさわしくないなどとする館側に対し、会田さん側からは現状のまま展示できない場合は撤去もありえるとの考えが示されている。
 企画展は18日に始まった「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」展。夏休み向けに館が企画し、4組の作家が参加している。会田さんは、妻と中学生の長男と共に「会田家」として参加。3人が感じている学校制度への不満などを、白い布に毛筆で「文部科学省に物申す」と書き、「もっと教師を増やせ」などと訴える作品「檄文(げきぶん)」が問題視されている。
 都生活文化局の担当者は「会田さんの展示全体として小さい子どもにはどうなのかという声が美術館と都側から上がり、展示内容の見直しを要請した」とし、都現代美術館は「批判的だから内容を変えて欲しいということではなく、どう子どもに親しみやすくできるかを会田さん側と話し合っている」と説明した。
 また、首相に扮した会田さんがたどたどしい英語で演説する映像作品「国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ」は、日本語字幕を外すことも検討されているという。
 館側は、撤去は要請していないと話している。また、クレームではなく、展示趣旨についての質問が寄せられたとした。(丸山ひかり)


●周辺関係者、芸術家、当事者の方々のツイートなどがネットにまとめられているのでご参照ください(http://togetter.com/li/851853)。朝日新聞の丸山記者はそれなりな問題意識を持っているがゆえに、このニュースを発見しワザワザ記事化したのでしょうが、新聞記者という職業柄、中立公正的ポジションから、作家側と美術館側でバランスをとった表現にとどめている。でも、実態は作家と美術館の関係は冷静なバランスが取れてない模様。おまけに、美術館組織内部でも荒れまくってる様子で、現場キュレーターの本音と東京都当局の主張はズレてるみたい。キュレーターは上からの外圧を回避すべく知恵を絞って着地点を見いだすべく努力したようなんだけど…。


さて、その問題の作品はどないなもんなの?
6メートルの布に「檄」と題した文章を毛筆で書き殴っている作品。

会田家「檄」

このわりと乱暴な表現自体が、この作品のコンセプトなはずなので、何が書いてあるのか書き起こすのはヤボな話なんだけど、この画像じゃ認識できないでしょうから、ヤボを承知で書き取ってみましたよ。

 檄

 文部科学省に物申す 会田家

 もっと教師を増やせ。40人学級に戻すとかふざけんな。先進国は25人教室がスタンダードだろ。少子化なのに。未来の資源に予算を回せ。教師を働かせすぎ。みんな死んだ目をしているぞ。教師も生徒も放課後部活に拘束しすぎ。部活やってないヤツはダメという風潮。とにかく時間がない。もっとゆっくり弁当食わせろ。十分で食えって軍隊かよ。運動会が変。組体操やめろ。教科書に答が書いてない。回りくどい。読んでわからない本作ってどーすんじゃい。教科書が独習者の邪魔をしている。教科書検定意味あんのかよ。カラーとかカサ増しいらん。かばんが重い。早くタブレット一つにしろ。特別支援教育がただの隔離政策みたいになってる。あの教室はまるでアルカトラズ。みんな同じように行動させられる。できない人間は目の前から消される。従順人間を作る内申書というクソ制度。いつまで富国強兵殖産興業のノリなんだ。素直な組織人間作って国が勝てる時代はとっくに終わってる。多様性の時代に決まってるだろ。個人の幸福を減らし、全体の国力も減らしてやがる。一致団結とかもう無理だから。オマエらのコントロールは吉と出ないで凶と出るんだよ。オマエらの設定している学校なんてどうせ不完全。万人向けと思わずもっと謙虚になれ。道徳の時間まったくいらない。役人風情が無限の可能性を持った人の心に介入するな。大学から哲学追い出すどころか中学から道徳追い出し哲学教えろ。美術が平均週一以下だと?バカにすんな。テメエら自身がバカになってるだろ。受験テクだけでT大行って、人生安全運転で官僚コースか。そんな奴らに舵どられるから日本は小手先の愚策連発でジリ貧コースなんだよ。オマエらこそイケてる外国に行って小学校から勉強し直しならどうだ。技術の先生は菊の育て方しか教えてくれません。PTAの役員に任命されるのが怖くて保護者が授業参観に来れません。新国立競技場の問題は全部俺に決めさせろ!!アーチストだから社会常識がない。真面目に子育てやってないと言わ□□□□(最後の一行?が読めず)



●みなさん、どー思いました?
●これ、普通の市民感覚から危険なほど逸脱してますか?公序良俗に反してますか?子供に見せると有害ですか?特定個人への誹謗中傷を含んでいますか?
ボクはそうは思いません。あははは、って笑うでしょう。この手のボヤキは、会田さんのお子さんと同世代の子供を持つボクら夫婦にだって共感できる部分がある。そのボヤキをわざわざバカバカしいほどのデカさで仰々しく書いてみた。しかもマジで読んでくれなんて思ってないでしょこの表現じゃ。最後は「新国立競技場の問題は全部俺に決めさせろ!!」とか言っちゃってんだから。(会田さんは新宿御苑改造計画を黒板に呆れるほど仔細に描く作品なんかも発表してるので、競技場問題も面白い題材にしちゃうかもしれませんけどね)まーそんなノリを狙って作り手は表現してるし、鑑賞者もそこは汲んでいかないと始まらないでしょ。
●しかし、現役中学生の息子さんをも当事者にして家族三人の意見をココにまとめてることは、企画展のテーマ「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」というお題に対して、実に真っ当な受け止め方ですよね。「だれの場所?」って言われて、子供を排除するのは変ですよね。ただ、この美術館は、おとなの場所でもなく、こどもの場所でもなく、作家の場所でもなく、鑑賞者の場所でもなく、たった一人のクレーマーと東京都の場所だったことが判明したわけです。彼らからみて邪魔なものは排除される場所なのです。


さて、会田誠さん側からのステートメントが発信されたので引用してみます。
http://m-aida.tumblr.com/

東京都現代美術館の「子供展」における会田家の作品撤去問題について
会田誠
2015年7月25日

 東京都現代美術館(MOT)で現在行われている「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」展に、僕と妻・岡田裕子と息子・会田寅次郎の三人からなる「会田家」というユニットは参加しています。僕ら3人は当展の担当学芸員である藪前知子氏とチェ・キョンファ氏と去年から小まめに連絡を取り合い、準備を進めてきました。
展覧会が始まって約1週間がたった7月23日と24日、美術館を代表する形で、チーフキュレーターの長谷川祐子氏と企画係長の加藤弘子氏から、出品作のうち2作品に対する撤去要請がありました。理由は、観客からのクレームが入り、それを受けて東京都庁のしかるべき部署からの要請もあり、最終的に美術館として協議して決定した、と説明を受けました。
2作品のうち1つは、僕たち3人が共同制作した「檄」という、墨文字がしたためられた6メートルの布の作品。もう1つは僕が去年作った「国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ」というビデオ作品です。後者についてはまたの機会に譲り、今回は「檄」についてのみ、その制作意図を書いて、今回の撤去要請が不当であることを訴えたいと思います。「檄」は三人の作ではありますが、発案者は僕であるので、とりあえず僕が一人で書きます。

まずこの作品は、見た目の印象に反して、いわゆる「政治的な作品」ではありません。現在の政権や特定の政党を、利する/害するような文言は一言も書いてありません。文部科学省という役所全体に対して、不平不満を述べているだけです。公立ではなく民間の場であっても、芸術を使って政治的アピールはすべきでない、というのは僕のいつもの基本方針です。芸術の自律性を大切にしたいがための、自分用の戒めみたいなもので、他者にも求めるものはありませんが。
また、この作品には全体的にユーモアが施されています。「檄」と大書された墨汁がほとばしるタイトルに反して、文章の内容は全体的には穏健なものです。特に自衛隊によるクーデターを呼びかけた三島由紀夫の「檄」に比べれば、脱力感漂うヘナチョコなものになっています。そういう「竜頭蛇尾」的なユーモア構造が全体に仕掛けられています。

文章の内容はある意味「大したことないもの」です。特に穿った意見がそこに書かれているわけではありません。我が家の食卓で話されてきた日常(すなわち自分たちが美術家夫妻であるという自意識も薄れているような日常)会話のうち、「日本の教育への不満」を抜き出したものがベースになっています。息子は一生徒としての、妻は一保護者としての体験的な実感を述べていて、僕はオヤジ臭く「国家百年の計」のようなことを主に述べています。
もちろん誠実に、本心のみを書いたことは言うまでもありません。家族3人の意見の比重が同じになるように、分量を調整しました。また3人の意見がバラバラである状態もそのまま示しました(それを無理矢理ミックスしたので、日本語としておかしい部分がたくさんあります)。

現代の日本の家庭なら、ごく普通にありうべき不平不満だと思います。しかし完璧に国民的中庸な意見とは言いません。「当然偏りはある」という前提で読んでもらうべき、「一家庭における一サンプル」にすぎません。

「個々人が持っている不平不満は、専門家でない一般庶民でも、子供であっても、誰憚ることなく表明できるべきである」というのは、民主主義の「原理原則」「理想」です。簡単に言えば「我慢しなくたっていい」「声を押し殺さなくていい」——その基本的な人生態度を、僕は子供たちにまずは伝えたいと思いました。その態度を少し大袈裟に、少しユーモラスに、そしてシンボリックなビジュアルとして示そうとしたのが、この「檄」と名付けられた物体です。

またこの「檄」は、そのような「理想」が内包する矛盾も意図的に示しています。誰もがこの現代美術館のような、天井高6メートルの空間に垂れ幕を掲げられる機会が与えられるわけではありませんから。みんながそれをしたらこの世は垂れ幕だらけになってしまいますが、その笑ってしまうような光景を幻視したうえで、社会とは何かを考えるのも良いことだと思います。
けして美術家ではない一般中学生である息子の参加を要請した上で、「ここ(=美術館)は誰のもの?」という難しい問いを投げかけた、担当キュレーター藪前氏&キョンファ氏に対する、僕なりの反応の一つが「檄」でした。民主主義や公共性というものは、突き詰めて考えたらとても難しいものです。不公平にもアピール度が突出した「一家庭の意見」のアイロニカルな姿を見て、たとえ子供であっても直感的に何かを考え始めてくれないだろうか……と、僕はアーチストとしてその跳躍性に賭けたいと思いました。

―――――――

次に「内容が子供展に相応しくない」という意見に反論します。
ここに書かれているのは日本国の教育制度に関する話——いわば「大人の事情」ですが、そのようなものを子供たちの目から意図的に遠ざけ隠す行為は、基本的に良くないことだと僕は考えます。
たとえば、僕は小学校時代「道徳」の授業に漠然とした違和感を感じていました。その理由の主なもの——戦前の「修身」がGHQにより禁止され、再び姿を変えて復活した——といった歴史的経緯は、ずっと後になって自発的な勉強によって分かりましたが 「小学生の時から誰か大人に教えてもらいたかったよ!」と強く思ったものです。僕はまったく聡明な子供ではありませんでしたが、そう思ったので、聡明さの問題ではないと思います。
「大人たちの作った世の中の仕組みは、ただ従順に信じるのではなくて、つねに疑いの気持ちを胸に秘め、警戒して生きてゆく——そういう“背伸び”はした方がいいんだよ」という、これは僕から子供たちへ伝えたい大切なメッセージです。
「ものごとを疑う精神」というのは、人間の知性にとって最も大切なものと僕は考えます。それは20歳で成人してから、突然行使する権利が認められるような類いのものではなく、それこそ「物ごころついた時から」着々と育んでいくべきものと考えます。いわゆる「思春期の自我の目覚め」で突然それに目覚める、その「遅さ」ゆえの「爆発」こそが、できれば避けるべき事態だ——というのが私の考えです。
その考えに基づいて僕は「檄」を始め、この展示全体を構成しました。この展示は「子供展」という枠組みに対する無視などのはずはなく、むしろ熟考の結果です。

———————

最後に「クレーム」について。
7月24日の話し合いの時に長谷川、加藤両氏から「観客からのクレームがあり、東京都庁のしかるべき部署からも要請がきたので、美術館としても協議し、撤去の要請を決定しました」と、僕は言い渡されました。
 僕は会場で公開制作を続けていて、観客の暖かい反応に接してきたので、そのクレームの話と自分の実感のギャップが気になり、ふと「何件のクレームが来てるんですか?」と聞きました。返答は「友の会会員が一名」というものでした。僕は一瞬耳を疑いました。てっきりたくさんのクレームが来ていて、その対応に追われているイメージだったので。僕が具体的な人数を質問しなければ、そのまま人数は教えてくれなかったでしょう。また「その東京都庁の部署はどこでしょうか」と尋ねたところ、「それは言えない」という回答でした。
このように、クレームの相手(の種類や量)を僕にまったく見せないままに、この撤去要請は行われました。これでどうして僕が「納得」できるというのでしょうか。



●どうですか?
●ご本人すらが「脱力感漂うヘナチョコ」と言ってます。「文章の内容はある意味「大したことないもの」です。」とも言ってます。なおのこと、あははは、と笑っていいものだと思いました。しかし、これは芸術作品です。ただの落書きではありません。職業的作家が知的生産物として発信するものです。
●一方、この作品の重要なポイントに言及しています。「『個々人が持っている不平不満は、専門家でない一般庶民でも、子供であっても、誰憚ることなく表明できるべきである』というのは、民主主義の『原理原則』『理想』です。簡単に言えば『我慢しなくたっていい』『声を押し殺さなくていい』——その基本的な人生態度を、僕は子供たちにまずは伝えたいと思いました。」少々デタラメでも、好きなことを言える社会が望ましい…これって、子供にとって有益なメッセージですよね。
●こんなにソーシャルメディアが発達しても、言いたいことをきちんと言える環境は整っていません。中学生になって LINE を始めたボクの娘は、友人の間で摩擦の起きない無難な立ち振る舞いに余念がありません。夏休みにとしまえんのプールに行こうというだけで、グループや派閥が関与して頭数が整わないほどです。これをうまくさばければリア充で、さばけなければコミュ障。なにこれ?楽しい社会か?美術館くらい、自由でいいじゃんかよ。

「アーティスト」なら自由な発言をしていいのか?
●と、角度の違う視点からイチャモンをつけてみましょうか。「アーティスト」なら、好きなことをマスメディアで発言したり、音楽に乗せて歌ったり、文章を書いて本屋さんで売ってもらったりできる。普通の人はできません。これは不均衡では?これは、このケースにおいては間違っているケースです。ここには「質の違う」不均衡があります。
「アーティスト」である以前に、会田誠さんは一個人の責任においてこの表現の自由を行使しています。彼の今後の活動が抹殺される可能性があるかもしれないリスクと責任をとって、彼は彼の固有名詞の上で発信しています。しかし、彼に作品を撤収しろと要請した側の人間は、誰だか全くわかりません。たった一名のクレーム発信者が、この作品のどこに疑問や問題を感じたのか?その見解は不明です。これは表現の自由の行使ではありません。文字通りの「無言の圧力」です。東京都庁の誰が何の責任において撤去する必要を判断したのかも作家に説明がなされていません。これは、作品表現をめぐっての自由な議論ではないのです。一方的な「圧力」なのです。この「圧力」に正当な根拠があるのか、いまのところちっともわかりません。おかしい。
「芸術」は実験です。科学分野で最先端技術が実験や試作を重ねて研究開発されるのと同じです。「芸術」は人間の知的創造の最先端を突き詰める実験であり、美術館はその試作機を設置する実験場なのです。発明技術そのものが対象になる科学分野の実験は、非公開で行われることが普通でしょう。しかし、芸術分野の知的創造は作品そのものだけにとどまらず、その作品をハブとした人間と人間のコミュニケーション、受け手側に起こるエモーショナルな作用までが一連のコンテキストとしての「実験」を構成します。だから公共的空間に公開されるのです。美術館の社会的位置付けは、その知的実験を奨励して、簡単には商用化し得ない最先端分野の探求を支援すること、そしてその成果をアーカイブすることなのです。ボクはそう思います。商用化レベルに落ちれば、それは世間に普及してエンターテインメント産業に寄与するでしょう。
●職能としてのエンジニアや研究者が敬意を払われるように、アーティスト、職業的芸術家もその働きに応じた敬意が払われるべきです。彼らの仕事は困難です。非言語され得ない、または言語化される以前の感覚感性の領域が彼らの探求エリアです。そこには簡単な解釈ができないものがゴロゴロと広がっています。スティーブン・ホーキング博士の物理学の論文が素人に手にあまるのと比較すればイメージはたやすいでしょう。でも、本当はそれ以上に芸術家は困難です。前述した通り芸術は作品制作から受け手側への作用までを包含した行為なので、解釈が困難であっても、ある程度の数の観衆からのなんらかの解釈を前提としなければいけませんから。最先端の研究者サークルと学会で意見交換するのとは質が違うのです。だからピント外れの解釈が生じることは当たり前のようにあります。今回もそのケースの一つでしょうし、たった一人のクレーマー氏も素朴に意味がわからなかっただけだと思うのです。
●しかし、現場キュレーターの意見をも無視して(会田氏はキュレーターと良好にヤリトリしていたはずです)、東京都が、その根拠も明らかにせず撤去を要請するという事態は、実験場としての公立美術館の存在意義を否定する自殺行為です。ここにハッキリとした違和感を感じるのです。これ、行政の芸術家への無理解ってことですか?



もうこの辺は蛇足なんだけど…本当に公教育と美術のナンセンスって呆れ返るもんで…。
●ボクが暮らす世田谷区の全ての中学校一年生は、毎年夏休みの宿題として「世田谷美術館に行って美術鑑賞レポート」ってのを課せられる。「美術に自発的に触れるチャンスを」という発意らしいけど、なんで世田谷美術館限定なの?ってのが疑問。だって世間にはこんなにたくさん美術展があって、中学生に対して美術の世界へのイントロダクションにふさわしい美術館はもっとたくさんあるでしょう。パパが選んでやるよ面白いところを!ムスメ「だめーいくとこ決まってるのー」自分の庭であるハコモノ施設への誘導&収益維持って魂胆が見え見え。
●じゃあ、美術館選びに自由がないなら遠足みたいに学校単位で子供連れてけよ、と思うでしょ。そしたら保護者への説明に、学校単位/クラス単位という大勢での美術鑑賞はよい環境ではないので、各自が好きなタイミングで個別行くという方針、的なことがワザワザ書き添えてあった。コレ学校が仕切るのがメンドクセエってことにイイワケ言ってるだけじゃん、とさらに呆れる。学校すらがウザがってるこの施策、誰トクなの?
●ボク個人は世田谷美術館も価値ある企画展をしかけてる時もあると思ってる。学生の頃よく行ってたし。しかし中一のムスメにオススメかと言えばどうかと思う。今年の夏の企画展は「金山康喜のパリ〜1950年代の日本人画家たち」…渋い。コレでレポート書かせて、何も知らない中学生が自発的に美術館に通うようになると正気で考えてるヤツがいるとすれば、そいつは美術全体を舐めてる。夏休みのレポートのために、こんな企画展を用意しましたよ!ってホスピタリティがあれば嬉しいが、なんでもいいから絵を見せとけ、としか感じ取れない。

●そもそもで、会田家作品「檄」は、本当に公教育に対する痛快な皮肉をユーモアたっぷりに発信する内容なんですよ。皮膚感覚でいつも思う学校への不信感にすげーフィットしてるんですよ。価値があるんですよ。
●あの「内申書」のくだり!うちのムスメは「内申書、ダイジョウブ!先生にいっつもゴマすってるもん!」とアッケラカンな割り切り。三者面談で先生に会ってみたら、ムスメ個人の学校での様子の説明はゼロ。この先生、うちのムスメ見てないとハッキリわかる。一方で、この内申書の仕組みをご丁寧にたっぷり説明…都立高校進学に内申書ってすごく重要らしいからそんなことしゃべるんだろうけど、中学一年生の一学期でそんな心配まだしてねえよコッチは!新しい環境でムスメがクラスに馴染んでるのか、楽しく暮らしてるのか、普通に教えてくれよ。だから会田さんに「死んだ目」とか言われるんだよ。「教科書に答が書いてない」とか本当に笑った。本当に書いてないだもん。


昨晩は、アニメ「図書館戦争」を見てた。焚書のディストピア世界。
芸術家の表現を行政が圧殺するこのニュースを見て、Huluでこのアニメ配信があることを思い出す。「メディア良化法」という法律のもと、武力をもって出版物を書店から押収廃棄するメディア良化隊と、それに対抗して図書館が出版物を守るために特殊部隊を組織して武装防衛するという話。荒唐無稽と思いながらも、同調圧力がシャレにならない今のご時世の中にあっては笑えない設定。


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