とうとう、平成20年になっちゃいましたね。
●普段から、西暦で70年代/80年代/90年代/00年代と思考してモノを捉えているので、昭和や平成で歴史や社会をイメージするのは苦手です。昨今人気の「昭和30年代」ブーム(三丁目の夕日とか)といわれても、正直ピンと来ない。でも平成の世も20年も続いちゃったかと思うと、感慨も深いものです。
●そこで今日は、平成元年/1989年前後の音楽シーンについて、個人的思い入れタップリに語ります。キーワードは、「バンドブーム」


●先日、ボクは1986年〜1988年桑田圭祐の音源&活動を語る事で、当時中学生だったボクが、音楽に、ロックに、いかにハマったか、というお話をしました。
 (前回の記事はコチラ:http://unimogroove.blog4.fc2.com/blog-date-20071214.html
●さらにソレ以前、1990年以降の「渋谷系」カルチャーについて綴った文章もあります。
 (過去の記事はコチラ:http://unimogroove.blog4.fc2.com/blog-entry-240.html
●今日綴るのはこの二つのエピソードの中間の時代。ボク個人の中では、この3編の文章は、大河ドラマ的超極私回顧録となります。
●よって、今回も甚だしくハイパー冗長で、下らない内容になります。大方の人々にとってほとんど利益のない物語です。この後を読む方はそれをご承知下さいね。



まずは、現在の下北沢・本多劇場からお話を始めましょう。

本多劇場

●ボクが住む街、下北沢は演劇の街です。大小多くの劇場がひしめく街です。バンド青年がこの街のライブハウスに集うように、多くの演劇青年がこの街に集まります。しかしボクには演劇の世界は縁遠く、5年もこの街に住みながら芝居の一つも観た事がありませんでした。今はノンビリ半失業者の身分、せっかくだからこの街を代表する「本多劇場」へと足を運んだのです。


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ナイロン100℃ 31st SESSION「わが闇」
●作・演出/ケラリーノ・サンドロヴィッチ。出演/犬山イヌコ・坂井真紀・岡田義徳・大倉孝二。とある小説家の家族を巡る物語。寝たきりになった父を巡って3姉妹三者三様の人生がひしめき合う。
●時の流れの中で家族は少しづつそのバランスを変えながら、均衡を求めてユラユラと傾きクルクルと回る。分かり易い結論を見せずに芝居はスッパリ終わり、観衆は突然劇場の外に放り出される。人生なるようにしかならないさ。そんな不思議な終わり方。芝居/舞台特有の躍動感が、釈然としない気分を爽やかな解釈の緩みに変えてくれて、なぜかボクは十分満足しのでした。

●劇団・ナイロン100℃ の芝居を観るのは、これで三度目。
●芝居とは縁遠いボクだがこの劇団だけこんなに観てる。なぜかというと、社会人になってから知り合った女友達が、学生時代この劇団の研究生だったという縁があり、その娘に連れられて見に行くのだった。自発的に足を運んだのはコレが初めて。ナイロンの芝居はいつもモーレツに長い。今回も3時間以上の内容。物語は脱線し逸脱し奔放に枝葉を伸ばす。
●今から10年近く前、初めてナイロンの公演に行った時は特別だった。その女友達の案内で楽屋スペースまで入れてもらう事が出来た。そして劇団の主催者であり演出家である、ケラリーノ・サンドロヴィッチさんに会わせてもらった。女友達は、なんか色々しゃべってたけど、ボクは「どうも、こんにちは」くらいしかモノが言えなかった。メチャメチャ緊張してしまったのだ。
●演劇世界でのこの人の評価は、演劇素人のボクには全然分からないが、音楽ファンにとってのこの人は「生きる伝説」だ。ナイロン100℃ケラリーノ・サンドロヴィッチさんは、音楽ファンにとっては、バンド有頂天のボーカリスト・ケラであり、80年代のインディーシーンを席巻したレーベル、ナゴムレコードの主宰者である。あの80年代の「バンドブーム」の超重要人物である。


80年代を象徴するインディーレーベル「ナゴムレコード」。
「ナゴムレコード」が発足したのは1983年ケラさん二十歳。手始めに前年に結成した自分のバンド・有頂天のソノシートをリリース、その他自身が関わったユニットや、自らが発掘した若きアーティストの音源を次々と世に送り出した。そんなナゴムの世界に取り付かれた女性ファンは「ナゴムギャル」と呼ばれ、ヘンタイよい子な80年代サブカルチャーの中で、大注目の社会現象を引き起こした。

ナゴム

ケラ氏がフックアップした様々な才能を列挙してみよう。
●静岡出身の奇人集団「人生」。カセットに録音されたメチャクチャなノイズに乗せて、楽器を演奏せずただひたすら暴れるというパフォーマンスがシュール。そこで顔を白塗りにしていたトラックメイカーの名が石野卓球ドラえもんのコスプレではしゃいでいたのがピエール瀧「人生」はその後メンバーチェンジをして「電気グルーヴ」へと改組。今では日本を代表するテクノアクトとして世界を舞台に活躍している。
●80年代のロック伝説として知られる「ばちかぶり」ナゴムから音源をリリースした。彼らのライブは汚物が飛び交う狂気の世界。ある日ステージから嘔吐物をまき散らした咎でライブハウスから怒られた。そこで次のステージでは、ホカホカゴハンタップリの炊飯ジャーを持ち込み、ライブ中にそこへ脱糞してみせた。そんな男が「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」のナレーションを担当してると知った時は本当にズッコけた。脱糞男の名は田口トモロヲ。日本映画界の個性派俳優として活躍している。
●バレリーナのコスプレをして歌う「ロシアバレエ団」には、その後マンガ家として活躍、「オヤジギャル」なる造語を世間に広めた故・中尊寺ゆつこが所属していた。

お嬢だん (1)お嬢だん (1)
(1997/07)
中尊寺 ゆつこ

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●その後「いかすバンド天国」で注目されるバンドも数々ナゴムに在籍。珍妙なキャラとヒット曲「さよなら人類」「イカ天」から「紅白歌合戦」まで駆け抜けたバンド「たま」。すっとんきょうな不思議少女ぶりが目を引いた「マサ子さん」「カステラ」はその後メジャーデビュー、「ビデオ買ってよ」というあられもないヒモ男のウタを歌う。このバンドのボーカル大木知之は現在も TOMOVSKY として下北沢界隈で活動中。「グレイトリッチーズ」ナゴムと金でもめたエピソードをそのまま「印税のうた」として発表、あの時代のデタラメさ加減をそのままロックにした。

ナゴムのアーティストでボクがハマったのは、大槻ケンヂ/筋肉少女帯だ。
●彼らもケラ氏にフックアップされたアーティストだ。女子と一言も会話出来ない内向的なボンクラ高校生であった大槻の、江戸川乱歩がドブ川に沈んでしまったようなイビツな猟奇趣味の歌詞を鬼気迫るテンションで絶叫する歌唱スタイルに、高校の先輩筋だったケラ氏が注目。二人が合体したユニット「空手バカボン」や大槻のバンド「筋肉少女帯」ナゴムから世に紹介された。
●ぼくが彼らの音楽を知ったのは、1987〜88年、中学2〜3年生のころ。深夜ラジオである。この頃の深夜ラジオに中学生のボクは夢中だった。「さんまのブンブン大放送」「三宅裕司のヤングパラダイス」などなどを眠気に負けそうになりながら聴いてた。フトンをかぶってヘッドホンでコッソリ聴くのだ。当時、ラジオ発で「ヒランヤ」(不思議な力を持つ6角形)や「恐怖のヤッちゃん」(ヤクザ屋さんにまつわるエピソードを愛称をつけて笑う企画)などなど様々なブームが起きていたのだ。
●そんなある日、級友のオオヤくんが「ラジオでチョーアホな曲がかかってるゼ、マジやばい!」(←こんな今時高校生のボキャで話してたはずはないが、もう当時の語彙はボクには思い出せない)とクラスのみんなに報告をした。それが筋肉少女帯「日本の米」という歌だった。「コメコメコメコメ!コメコメコメコメ!知らないのか!納豆にネギを刻むとうまいんだ!」ヘヴィなロックに超ハイテンションな声でこんなバカげた歌詞を絶唱するのだ。バカな中学生であるボクは大爆笑して大喜びした。本当にバカだったので、納豆にネギを刻むとうまいコトもココで初めて知ったのだった。

空手バカボン ナゴムコレクション空手バカボン ナゴムコレクション
(2005/08/24)
空手バカボン

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空手バカボン「ナゴムコレクション」1983〜89年
●今回、ナイロンの公演を見に行って初めて知ったのだが、この時代のナゴム音源がココ2年ほどでドンドンご丁寧に再発されているというのだ。当然それまでは激レア音源。公演終了後、物販ブースでこの空手バカボンのCDを即買いしてしまった。2枚組、4200円もしたけどね。こんな高いCD買うの久しぶり。
ケラ大槻空手バカボンは、初期の筋肉少女帯と同時並行で活動してたユニットなので、レパートリーが沢山かぶってたりしてる。「日本の米」も収録されてる。テクノポップ志向の強かったケラさんの趣味で、トラックはへっぽこエレクトーン&貧弱ギターの激安宅録、それをバックに、ウタ半分コント半分という構成でケラ大槻がしゃべくり怒鳴り合う。内容は「バカボン教」という宗教をひたすら布教する悪フザケ100%の音楽だ。
KING CRIMSON の名曲「太陽と戦慄」に適当な歌詞を乗っけて「バカボーン!」と叫びまくってた曲や、Y.M.O.「ライディーン」カバーは残念ながら収録不可だったっぽい。聴きたいなあ。
●皆さん、赤塚不二夫が生んだ希代のキャラクター「バカボンのパパ」を見くびってはいけません。「西から昇ったおひさまが東へ沈む、これでいいのだ、これでいいのだ」。なんと力強いテーゼだろう。バカボンのパパは偉大だ。いかなる不条理も絶対的肯定をもって受け止める。さながらニーチェの超人思想、永劫回帰の思想につながる天才だ。大槻バカボンを題材に選んだのはタダの偶然ではないと思う。
●疑似宗教「空手バカボン」で叫ばれた気味の悪いジョークは、筋肉少女帯メジャーデビュー後の名曲「これでいいのだ」へと発展する。その後文筆業でも活躍する大槻の文学的素養はこの頃からすでにハッキリしており、実存への不安を悪フザケと猟奇趣味でラッピングし、バンドブームのキワモノ面を代表する存在になっていく。


ナゴムによる80年代の小規模地下活動についてはちと一休み。ちょっと寄り道しつつ、メジャーシーンに目を向けてみましょう。


1989年/平成元年の激震。新時代の始まり。
●お話はこの年のボクの思い出にワープします。1989年1月8日。何の日か覚えてます? 昭和天皇崩御の日。昭和が終わった日です。
●当時ボクは中学3年生、父親とともに中央線に乗ってある都立高校に向かっていました。千葉県から東京都に突如引っ越すこととなり、都立高校へ越境受験するための手続きをしに行ったのです。千葉県立の進学校を受けるつもり満々だったのに、親から「東京に引っ越すから東京の高校受けろ」と受験直前でいきなり方向転換させられてボクは大不満でした。結果的には超リベラル教育が浸透したこの都立高校に進学した事が、後のボクの人生で大きな意味を持つ事になるのですが。
●教頭先生みたいな人と淡々と事務的な話をすまし、試験を受ける手続きは昼前に済んだ。帰り道、ボクはちょっとした好奇心から父親と別れ、皇居に行ってみる事とした。天皇の死を迎えた皇居に。
●東京駅からテクテク歩く。もう壮観。真っ黒い喪服に身を包んだ大勢の人々が一斉に同じ方向へ歩いていく。二重橋の前の広場では「天皇陛下バンザイ!」と叫ぶお爺さん。一体何のモチベーションでこの群衆はココに集うのか。とても不思議。ボクは詰め襟の学生服姿なので、ちょっとした右翼少年。そんなヤツ一人もいない。行列に粛々と並び、ヘタクソな筆文字で記帳してきた。生まれて初めての記帳、そもそも生まれて初めての皇居。
●その後、皇居のお堀を一周。お堀にはダイバーがゴムボートの上で待機。誰か飛び込むヤツが出るんじゃないかと心配してるみたい。通りすがりのオジさんが教えてくれた。ラジオが伝えている、新しい年号は「平成」だと。


1989年/平成元年の激震。第一のポイント。音楽チャート番組の機能不全&崩壊。
●この年、音楽シーンとテレビの関係が一変する。1978年に始まったTBS「ザ・ベストテン」1989年の9月末で終了。1967年から番組のタイトルを変えながら存続していたNTV「歌のトップテン」1990年3月末で終了した。

既存芸能界/歌謡界のチャートシステムへ反抗するロックバンド。
●80年代の音楽業界は、2つのテレビ番組、TBS「ベストテン」NTV「トップテン」という番組のチャートシステムが有効に機能することで、国民の大衆歌謡、ヒット曲が開発される仕組みを持っていた。ランキング形式だから、演歌もポップスもアイドルも全部ごった煮。日本国民全員が共通認識出来る大衆歌謡を発生させる文化的装置。しかし、これが80年代末になると機能不全を起こし始める。このランキング形式というフォーマットに対してアーティスト側が異議申し立て、出演拒否を始めたのだ。
●ランキング形式で他アーティストと比較される見え方、生放送がゆえに放送上の都合で十分なパフォーマンスが出来ない、特にテレビサイズと言われる短縮編集されたバージョンを強要される。これが出演拒否の動機だ。出演拒否を決め込んだアーティストは、遡れば何時の時代にもいる。フォーク時代の吉田拓郎はテレビ出演全体を拒んだし、郷ひろみ1982年から出演拒否をしている。しかし彼らはすでにメディアの中で立場が確立したパフォーマーだ。
●しかし80年代末の出演拒否は微妙に質が違う。無名であるはずのロックバンド、ロックパフォーマーが、傲然と出演拒否をしたのだ。ポッと出の若造が、既存芸能界/歌謡界のシステムにツバを吐いたのだ。そんな新世代を代表するバンドの名を一つ挙げよう。「BOØWY」だ。

ボクらバカ中学生はみんな「BOØWY」に夢中。
1981年、群馬・高崎市にて6人組バンドとして発足。その後、氷室京介(結成時は狂介)、布袋寅泰、松井常松、高橋まことの黄金カルテットが成立。1984年東芝EMI に移籍してからその快進撃が始まる。その後ジュディマリからラルクまで手がける敏腕プロデューサー佐久間正英とともに制作した3rdアルバム「BOØWY」でブレイク、1986年には武道館公演をこなす。

BOφWY(紙ジャケット仕様)BOφWY(紙ジャケット仕様)
(2007/12/24)
BOΦWY

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●しかし彼らは全くテレビに出演しない。そりゃ最初はちっとは出たそうな。が、結果的にはその音楽性が全盛期を迎える1986〜1988年には全くテレビ露出をしなかった。「夜のヒットスタジオ」のMC 古館伊知郎の言動にムカついたとか、その理由には諸説ある。いずれにせよ「ベストテン」のパタパタ回るランキングボードに BOØWY の文字が登場しても、MCは「ご都合により出演はございません」と冷たくスルーしていくのだった。
●なのに、ボクの中学校に通う男子で BOØWY を知らないヤツは一人もいなかった。ドコから情報を得ているかボク自身全く分からなかったが、友達同士でカセットテープをダビングし合い、何回も聴き込んだ。氷室京介がバリバリのヤンキー上がりだというコトが、千葉のヤンキーシティに住んでいたバカ中学生の中に強烈なシンパシーを生み、テレビをボイコットする反骨精神が、最高にクールに思えたのだろう。

GIGS CASE OF BOΦWY 1GIGS CASE OF BOΦWY 1
(1987/10/05)
BOΦWY

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BOØWY「"GIGS" CASE OF BOØWY」1〜4巻1987年
●全盛期の BOØWY の映像を収録した VHSビデオ。テレビに出ないのだから、動く彼らの姿を観るには、当時この全4巻のビデオしか手段がなかった。
1987年頃はフツウの家庭にビデオデッキが浸透し始めた時期。我が家は家電業界の趨勢を見事に読み違え、ベータマックスを購入してしまったため、ビデオレンタルでどえらく苦労させられた上で、後からVHS機を購入するハメになった。結果2台のデッキを持つ事となるわけだが、それで一番最初にした事が「"GIGS" CASE OF BOØWY」を全巻レンタルし、ダビングすることだった。レンタル屋は当時まだ少なく、在庫を備えた店までチャリンコで二駅分移動して借りてきた。それこそ映像がザラザラになるまで見まくった。カセットテープに音声をダビングして聴きまくった。「ギグ」って言葉をココで覚えたし、彼らが着てた黒いロゴタンクトップを必死に探して着てしまった。
●今回、下北沢のレコード屋でこのビデオを再購入してみた。CDのスタジオ音源では伝わらない躍動感がビリビリ響いてくる。松井常松&高橋まことのリズムセクションがタイトでジャストなビートを弾き出す。
●その上を奔放に踊り回る布袋寅泰のギター。ホントに彼のギターは手数が多い。スタジオ音源のオーバーダブでは普通に聴こえてしまうが、ライブでは彼のギター一本が変幻自在に機能してバンドサウンドを豊かにしているのがハッキリわかる。ジャストだが饒舌なリフ、そして舞い上がるようなソロ。オーバーエフェクトでもないのに、分厚い。中学生のボクは、彼の指がギターから音を弾き出しているのではなくて、ギターに乗り移ったドラゴンの咆哮を、彼が猛獣使いのようにクビネッコを掴み、演奏として制御していると思ってた。
●そして氷室京介。彼のスタイルがその後の日本語メジャーロックのカタチを作ってしまった。今見ているこの映像が20年前のモノとは思えない。GLAY が今やってる事と全く変わらないじゃないか。近寄りがたい危険な雰囲気、ややナルシスティックな身のこなし。今のロックバンドはこのフォーマットから自由になれてない。

NEO FASCIO(紙ジャケット仕様)(CCCD)NEO FASCIO(紙ジャケット仕様)(CCCD)
(2003/07/21)
氷室京介

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氷室京介「NEO FASCIO」1989年
●これはヒムロックの2枚目のソロ。この前下北沢で167円で買った。気分としては1STソロの「FLOWERS FOR ALGERNON」1988年ダニエル・キイスの同名小説も有名)といきたかったトコだけど、見つからなかった。
BOØWY1987年に解散宣言。1988年「LAST GIGS」@東京ドームでその歴史に幕を閉じた。ヒムロックは速攻でソロ活動を始動。この作品もカセットにダビングしてボクは何度も聴いた。改めてジャケを観るとなかなか美しい。「ファッショ」という危険な臭いのするフレーズに、アンドロギュヌス(両性具有)的な人物像。クール。その後彼はロサンゼルスに移住、去年は KAT-TUN への楽曲提供(「KEEP THE FAITH」)など意外な活動もしてみせた。

GUITARHYTHMGUITARHYTHM
(2000/12/13)
布袋寅泰

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布袋寅泰も、やはり解散直後にソロアルバム「GUITARHYTHM」1988年をリリース。EDDIE COCHRAN のカバーで幕開ける傑作だ。BOØWY の作曲面をほぼ全部を担当していた彼は、バンドの枠が外れるとオーケストレーションから最新の打ち込み機材、大胆なシンセ導入でその真のポテンシャルを開花させた。
●そしてその後、なんと吉川晃司とユニット COMPLEX を結成する。吉川晃司はボクの中で歌謡ロックのカテゴリーの人だったので、正直意外だった。が内容には十分満足。その後は山下久美子との離婚、今井美樹と再婚、高岡早紀との不倫、町田康との殴り合いなど、それなりのゴシップも世間に振りまきつつ、日本語ロックの最前線に立ち続けている。近作では RIP SLYME とのマッシュアップコラボ「BATTLE FUNKASTIC」が痛快。


BOØWY は解散したが、その後も彼らの後を追うように「ベストテン」「トップテン」ボイコットのロックアクトが頻出。尾崎豊、THE BLUE HEARTS、ZIGGY、BUCK-TICK、JUN SKY WALKER(S) などなど。ランキング番組は、日本の音楽シーンを網羅する事が出来なくなり、その歴史的役割を終える事になった。ロックが日本歌謡曲の枠組みを変革に追いつめたのだ。その一方で、テレビとロックが手を結んで新しいブームを作ろうとしていた。やはり平成元年、土曜の夜だ。


1989年/平成元年の激震。第二のポイント、「いかすバンド天国」。
1989年2月、とある深夜番組が始まった。その名は「平成名物TV いかすバンド天国」。MCの三宅裕司が第一回放送の冒頭で「初めて平成という言葉をタイトルに使った番組です」と挨拶しているのを覚えている。数々の素人バンドが毎週毎週たくさん登場、珍妙パフォーマンスから奇天烈な衣装、言動、音楽をまき散らした。
●第一回目の放送からスキャンダラスだった。とあるバンドが減点されて演奏VTRが中断されると、ボーカルの女の子が何かをわめいて自分のパンツを降ろした!番組は生放送、映っちゃいけないモンが映れば大変な事になる!で、カメラのスイッチングは混乱し、MC三宅裕司を撮り続けるのだが、彼もひたすらキョドるだけで「やー初回から大変なことになりましたー!この番組、大丈夫でしょうか」と口走るだけ。テレビの前でボクは大爆笑。これこそ新時代の番組だ、音楽だ。土曜の深夜は毎週ランチキ騒ぎ。「バンドブーム」がココに大爆発をはじめたのだ。

この番組に出たバンドを挙げてみよう。
●前述のナゴムから紅白まで上り詰めた たま。猟奇趣味の青森ヘヴィメタル人間椅子。代表曲「夏祭り」が後年カバーされたロカビリーテイストの JITTERIN' JIN。ベースにインパクトがあったグラムロッカー マルコシアス・ヴァンプ「ハイになりましょう!」ブラボー!みうらじゅんのバンド 大島渚。番組では秒殺だったのに、ただカワイイという理由だけでメジャーデビューした女子バンド PINK SAPPHIREジャニーズばりのイケメンぶりでアイドル人気を集めた KUSU KUSU「涙そうそう」の大ヒット、自ら開発した楽器「一五一会」など手堅くマイペースに活動を続ける沖縄のブルーストリオ BEGIN。近年はメンバー青柳拓次のポストロック路線が高い評価を集める LITTLE CREATURES。人を喰ったバンド名宮尾すすむと日本の社長のボーカルは、そのままTBSの入社試験に受かってしまったという。
●たまたま最近買った「イカ天」系のCDを二枚挙げる。

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FLYING KIDS「続いていくのかな」1990年
初代グランドイカ天キング(つまり5週勝ち抜き)に輝いたファンクロックバンド。番組初登場時に、つんつるてんの中学校ジャージで登場したボーカル浜崎高司の飄々とした態度が妙な貫禄を漂わしていた。当時はジャージってだけで「それでテレビ出ていいのかよ」的な雰囲気だった。時代変わったなあ。
●実はボクが大学一年生の時、イベント企画サークルで彼らを招いた事がある。カッコよかったですよ。リハにボーカル浜崎氏はほとんど参加せず、パリッパリの殺気オーラを放って客席からメンバーの音合わせを睨みつけてた。本来はナイーブなタイプの人がステージを前にテンションを絶頂に高めていく鬼のような後ろ姿。サークルの一年坊だったボクは、機材搬入の手伝いをしながら、そんな彼を横目に見て「バンドマンって大変だなあ」とか思ったのであった。
イカ天バンドの音源なんてほとんど廃盤ゴミ扱いのような気がするが、これも例によって下北沢で267円で採取。「イカ天」で披露した代表曲「我想うゆえに我あり」「幸せにあるように」を収録。ちゃんとファンクを目指してるんですよね、今聴いて初めて理解したけど。アルバムタイトルは不安げだけど、即座に姿を消した百凡のバンドに比べれば彼らのキャリアは長く続き、1998年に解散。浜崎氏はソロに転向。

SATURDAY NIGHTSATURDAY NIGHT
(2000/07/05)
BLANKEY JET CITY

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BLANKY JET CITY「SATURDAY NIGHT」2000年
●意外とも思えるようだが。彼らも「イカ天」出身だった。番組末期1990年6代目グランドイカ天キング。彼らも解散こそすれどメンバーはそれぞれ最前線で活躍する日本ロックの重鎮だ。高校生になっていたボクは、な〜んかこの番組に飽き始めていて、彼らが「イカ天」バンドだったとは後から知ったほどだった。彼らほどともなれば、番組もブームも関係なく世に出たであろう。本作は彼らが解散宣言後に放ったラストシングル。2000年の解散後も、メンバー各自はそれぞれが活発に活動している。


ともかく、この番組から世に出たバンドは数知れず。
●番組の仕組みは至ってシンプル、単純に「バンド勝ち抜き合戦」。似たようなタレント発掘番組のアプローチは後にも先にも数々あったろうが、これほどの社会現象になった成功例はなかなか見つからない。(強いて言えば、TX「アサヤン」モーニング娘。ぐらい?)さて、このブレイクの理由はなにか?
●折しも日本経済は空前の絶頂期を迎え、ドコもかしこも金あまり。悪名高き「バブル経済」が最後の爛熟期に入っていた。芸能界/音楽業界は、既存システムの外から到来した若者の群れに金の匂いを嗅ぎ取った。多くのレコード会社/芸能事務所がロックバンドに群がり、青田買いをし、デビューを乱発させた。しかし所詮違うカルチャーに属する人種。すぐそこに迫っていたバブルの崩壊とともに、両者の蜜月も崩れ去る。多くのバンドが見捨てられ、忘れ去られた。


栄枯盛衰。ザ・ライズ・アンド・フォール・オブ・「バンドブーム」。

リンダリンダラバーソール (新潮文庫)リンダリンダラバーソール (新潮文庫)
(2006/08)
大槻 ケンヂ

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大槻ケンヂ「リンダリンダラバーソウル」
●前述のバンド筋肉少女帯にお話が戻って参りました。ボーカリスト大槻ケンヂが自らのデビュー、バンドブームに翻弄されるがままの日々、そしてその崩壊、混乱、そんな記憶をフィクションを交えながら描く半自伝的小説。バンドブームは、良き語り部を持ちました。同時代のロックバンドとの交流をも生き生きと描き、あの時代のカオスと狂乱と哀愁を物語る。ワケも分からずデビューが決まり、浮かれ騒ぎとモテモテぶりで大興奮していたら、いつの間にやら人気もお金も消えてなくなりスカンピン。ブームっつーモンは残酷だ。イニシャルトークで登場する音楽業界の裏方さんには、ボクも実際に会ってお仕事したコトがある人もいたりして。ボクと同世代の人ならきっと楽しめると思う。でもソレ以外の人にはナニがなんだかサッパリなのかなあ。
バブル経済「バンドブーム」を投機対象として介入を始めたのが悲劇の始まりだったのでしょう。そもそも実力も不透明な若者に、ロクなマーケティング戦略もなくドブドブお金を突っ込んでたら、絶対失敗しますわ。ロックバンドの扱いを、既存芸能界/マスメディアは全然理解出来てなかったし、バンドマン自身は世の中の仕組み自体を理解していなかった。ただ音楽やって楽しく生きていければ十分だったのに、どっかで道を踏み外した。
●著者・大槻は決してブームの落伍者ではない。落伍する不安に追いかけられながらも、ちゃんとサヴァイヴできた。彼の文筆は高く評価され、代表作の青春小説「グミ・チョコレート・パイン」ケラリーノ・サンドロヴィッチ監督のもと映画化される。一時活動休止状態だった筋肉少女帯は再結成を果たし、今でもロックに関わって生きている。才能のある人はちゃんと生き残る。これも事実だ。


●この「リンダリンダラバーソウル」に登場するいくつかのバンド、そしてソレ以外の思い入れのあるバンドに対して、ボクなりの思い出を綴ってみます。


JUN SKY WALKER(S) 小学生〜中学生時代/原宿「ホコ天」の風景。

JUN SKY WALKER(S)

「歩いて行こう」1989年
●略してジュンスカ。今は亡き原宿・代々木公園歩行者天国、つまり「ホコ天」出身のビートパンクバンド。1988年筋肉少女帯と同日/同レーベル TOYS FACTORY からメジャーデビュー。「歩いて行こう」は個人的な代表曲。1997年解散。去年から再結成プロジェクトを始動させている。
●80年代の「ホコ天」には度々足を運んだ。小学生だったボクは、表参道のキディランドまでチョロQガンプラなどの買い物をしに行ってた。竹下通りの雑貨屋で「死ぬまで有効」なめネコ免許書とかも買ってた。そんな折には必ず「ホコ天」まで足を運び、当時の珍奇な風俗を見物したものだった。ラジカセを囲み変なダンスを踊る「竹の子族」は、子供心にも「なんじゃこりゃ」と思った。「竹の子族」とは別系統のロカビリーダンスな人たちもいた。「前略、道の上より」一世風靡セピアもいたのだろうが、それは目撃した事はない。
●そんな「ホコ天」の住民が不思議なダンスチームからバンドキッズたちに移り変わっていったのは、1986年あたりだっただろうか。バンに機材&PAをタップリ詰め込んできたロックバンドの大音響ライブは、ラジカセ竹の子族をその音量で駆逐した。ボクが中学生になっていた1988年頃には、無数のバンドと彼らが引き連れる100人単位のギャルファンたちで路上が埋め尽くされていた。みんなで揃ってぴょんぴょん跳ねて、みんなで揃って人差し指を宙に振る。沢山のバンドの音はお互いに入り交じってただひたすら耳障りで、NHKホールの前あたりでは「どーっ」という地鳴りだけが響いていた。ジュンスカもいたのだろうが、ここで目撃した事はない。代わりに THE FUSE というバンドが500人単位の女の子を集めて賑やかにライブをしていたのをよく見かけた。後に彼らもメジャーデビューするなんて、考えもしなかった。THE FUSE のCDもこの前100円で売られているのを見たが、さすがのボクでも買うつもりになれなかった。
ジュンスカの音楽は今から振り返れば、00年代初頭に流行した「青春パンク」の先駆けだったのかな〜なんて感じる。ボーカル宮沢の現行バンド ジェット機 はジュンスカ時代のまんまでありながらキチンと現代の「青春パンク」であり続けている。ベース寺岡呼人は解散後、音楽プロデューサーとして大活躍。横浜の路上少年 ゆず をビッグアクトに成長させた。去年は自身のユニット GOLDEN CIRCLE でユーミン&ゆずをフィーチャーしシングル「MUSIC」をオリコン1位に叩き込んだ。


メスカリン・ドライブ 小学生〜中学生時代/女子がロックするというコト。

メスカリン

「SPOONY SELFISH ANIMALS」1989年
バンドブームの大きな功績の一つは、女子にロックの世界へ門戸開放したコトだと思う。既存芸能界で女子がステージに立つためには、男子の憧れ/願望を象徴し、文字通りの偶像としてカワイらしく立ち振る舞う事を強要された。これが80年代アイドルだ。アイドルはウンコもしなければオナラもしない。そりゃ人間じゃないだろう。でもこのアイドル全盛時代にはソレが強制されたのだ。女性アイドル個人とパブリックイメージの乖離/葛藤は死に至る病となり、岡田有紀子1986年に飛び降り自殺をした。同年、男女雇用機会均等法が施行されたのは象徴的だ。「男女平等」が時代の気分になるのはコレからだったのだ。
●女子がギターを握り、ロックする行為。誰が最初に始めたのかと言う話はココではしない。しかし世間に一般化したのはバンドブーマーである PRINCESS PRINCESS だと思う。デビューは奇しくもやはり1986年。ココに時代の境目がある。彼女たちの音楽は快活で爽やか、奔放で飾り気がなかった。アイドルの鎖を断ち切って見えたし、彼女たちを見てバンドを志した女子は多いと思う。女の子もロックしてイイのだ!男女平等だから! だが彼女たちはオーディションによって組織されたねつ造バンドで、ブレイク以前は別名バンドとしてアイドル仕事も強いられたようだ。
メスカリン・ドライブはリアルなガールズバンドだ。1984年から大阪を拠点に活動開始、ガレージサイケをベースにしたサウンドと痛烈なイデオロギー性が異色。本作は彼女らのセカンドアルバムで、女子を囲む社会環境を痛烈に皮肉っている。幼きシングルマザーの気持ちを叫ぶ「パパは誰?」、ステレオタイプなお嬢様をアイロニカルに笑う「笑いっぱなしの島」など、戦闘的で大胆不敵な姿勢は本当にご立派。90年代アメリカで「RIOT GRRRRL」というムーブメントが女子パワーを炸裂させたが、それを10年先行して実践していたわけだ。
1988年メスカリン・ドライブは、ミクスチャーパンクバンド、THE NEWEST MODEL と共にソウルフラワーオフィスを設立。その後、1993年にこの二つのバンドは合体。ニューバンド SOUL FLOWER UNION へと発展する。


BARBEE BOYS 中学生時代/ポスト「おニャン子」の流れの中で。

1st OPTION(紙ジャケット仕様)1st OPTION(紙ジャケット仕様)
(2006/12/06)
バービーボーイズ

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「1ST OPTION」1985年
●このバンドのメジャーデビューアルバム。杏子KONTA、男女ツインボーカルが、そのまま男女の感情の駆引きを暗示するような掛け合いをしながら展開する歌詞世界と、その緊張感をあおるような細かいギターさばきとソプラノサックスが斬新なバンドだった。このアルバムだけでなく「負けるもんか」「女ぎつね ON THE RUN」「目を閉じておいでよ」などよく出来た佳曲を多く残したが、1992年に解散。この盤はシモキタザワで100円で採取した。
●バンドの存在を初めて知ったのは、フジテレビ「夕やけニャンニャン」の後番組「桃色学園都市宣言!合羽坂学園」1987年という番組の月代わりエンドテーマだった。おニャン子クラブは80年代最強最後のインパクトを持ったアイドル集団だったが、タダの女子高生をアイドルにメディアが祭り立てるという大仕掛けで、アイドルたる存在をパロディ化してしまった自己矛盾的アイドルだった。80年代型アイドルを滅亡させた最後のアイドルと言ってもいいと思う。その後番組「合羽坂学園」は、そんな「アイドル以後」を意識して積極的にバンドサウンドを番組に導入した。後述する THE BLUE HEARTS も、PRINCESS PRINCESS もココで曲を披露してた。今のタイアップソングのようにプロモを20秒垂れ流すのではなく、しっかりスタジオ収録したパフォーマンスをそれなりの長さで見せていたのだ。
杏子は音楽事務所オフィスオーガスタスキマスイッチ、元ちとせなどが所属)の最古参アーティストとして活動している。去年アルバムもリリース、事務所メイトのスガシカオ&山崎まさよしと組んだユニット福耳でも活躍している。舞台にも挑戦しているようで、下北沢のスズナリで彼女のお芝居が今月あるみたいだ。ベーシストのエンリケは、70年代型アイドル野村義男(ex.たのきんトリオ)とともに90〜00年代型アイドル・浜崎あゆみのバックバンドに所属しずーっと活動している。


THE BLUE HEARTS 高校時代/夕暮れの校舎に響くウタ。

YOUNG AND PRETTYYOUNG AND PRETTY
(1987/11/21)
THE BLUE HEARTS

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「YOUNG AND PRETTY」1987年
●コレは説明なんて必要ないでしょう。大槻の小説「リンダリンダラバーソウル」というタイトル自体が彼らの代表曲からインスパイアされているじゃないですか。ドブネズミの美しさを歌ったあのウタですよ。彼らは日本語パンクの聖者であり、生きる伝説である。1987年にメジャーデビュー。1995年に解散。ボーカル甲本ヒロトとギター真島昌利THE HIGH-LOWS、ザ・クロマニヨンズと、バンドを改組しつつもこの鉄壁のコンビを崩さない。
●すんません、ちょっと個人的な寄り道をします。1989年に都立高校へ進学したボクは、将来の夢として抱いていたジャーナリズムへの憧れと、音楽好きの仲間が見つかるだろうという動機で「放送部」に入ってしまった。ジャーナリズムへの高潔な理想は大学時代に根腐れしてしまったが、現在の職業に収まるステップの第一段階になった。音楽好きの仲間も全然見つからなかったが、ここで将来ボクのワイフになってしまう女の子に会ってしまった。
「放送部」の活動は下らないモノからソコソコ役立ったモノまで色々あったが、「下校放送のBGMを作る」っつー仕事があった。毎日夕方になると、カセットデッキがタイマースタートして、自分が作ったBGMが校舎やグラウンドに流れるのだ。「全校生徒の皆さん、下校時刻になりました。部活動を終了して帰宅しましょう」的なナレーションにのせて好きな音楽をかける。ボクはここに THE BLUE HEARTS「チェインギャング」を使った。セカンドアルバム「YOUNG AND PRETTY」の最後の曲だ。珍しくギターのマーシーがボーカルをとるスローバラードで、いがらっぽい彼の声とハーモニカが好きだった。人気もまばらな校舎の中をこの曲が響くのを、ボクは今もノスタルジックに思い出す。
「生きているっていうことは カッコ悪いかもしれない 死んでしまうという事は とってもみじめなものだろう だから親愛なる人よ そのあいだにほんの少し 人を愛するってことを しっかりとつかまえるんだ」


BO GUMBOS 大学時代/不思議ちゃんコヤマさんの思い出。

THE KING OF ROCK‘N’ROLLTHE KING OF ROCK‘N’ROLL
(2005/01/26)
BO GUMBOS

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「THE KING OF ROCK'N' ROLL」1994年
●京都のアンダーグラウンドで活躍していたローザ・ルクセンブルグのメンバーらがバンドを改組、1989年メジャーデビュー。ボ・ガンボス「ボ」BO DIDDLEY「BO」ガンボはニューオリンズの郷土料理。名前だけでも泥臭く人間臭い音楽だってわかる。ボーカルのどんと氏はその飄々としたキャラで、特殊なカリスマオーラを放っていた。
●本作は彼らがカバー曲だけで固めた同名ツアーの実況録音盤。その後もソウルカバー、ジャングルビート(BO DIDDLEY のスタイル)のカバーとこのシリーズが第三弾まで続く。第一弾はズバリロックンロールの古典巡り。ELVIS PRESLEY から BUDDY HOLLY、「火の玉ロック」、THE DOORS、LOU REED、IRMA THOMAS まで網羅した内容で、彼らのライブリーなトコロがいかん所なく発揮されてる。残念ながらこの音源をボクはカセットテープでしか持ってなく、長い間聴く事が出来なかった。先日古道具屋でカセットテープデッキを購入したのも、コレを聴くのが大きな動機だったし、この時代の音楽を振り返りたくなったのもコレがキッカケである。
●この音源は彼らのキャリアの末期。翌1995年、バンドは解散。どんとは沖縄に移住しインディ活動を始める。大学生だったボクは、英会話教室で知り合った不思議ちゃん系女子コヤマさんから彼のソロCDを売ってもらった。コヤマさんはこの前の年「ワタシ沖縄行こうと思うの」と言い残して突然姿を消し、そんで一年後またひょっこり戻ってきてた。で「どんとさんはいいよ〜」と言ってCD「ゴマの世界」を譲ってくれたのだ。ボ・ガンボスの代表曲「魚ごっこ」につながる浮世離れしたほんわかミュージックだ。コヤマさん「有機パンを作る」と言って再びいなくなってしまった。不思議ちゃんだった。どんとさんの音楽と同じようにツカミドコロがなかった。

ごまの世界ごまの世界
(1997/12/15)
どんと

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どんとさんの演奏に生で触れたのは、1996年1月16日「つづら折りの宴 IN 長田」というイベントだ。1995年阪神大震災のちょうど一年後に、SOUL FLOWER UNION の呼びかけによって企画されたこのイベントは、被害の重かった長田エリアの中心、長田神社でフリーライブとして行われた。ソウルフラワーはアンプラグド(チンドン屋さん)仕様のソウルフラワーモノノケサミットとして出演。どんとさんもギター一本の弾き語りを披露した。震災ではボランティア学生として神戸に入ったボクにとって、このイベントはとても特別だった。
2000年どんとさんはハワイにて脳内出血で急死。享年37。突然過ぎた。まるですっといなくなってしまうように死んでしまった。職場のアネゴ先輩が本気で悲しんでた。その死が報じられた日は半ベソだった。
●このバンドのキーボーディストだった KYON氏は、ここ最近は元ちとせのバンドマスターを務めている。元ちとせの天然力をフルに活かすためにガッチリとバンドを引き締めている。


カブキロックス なんで24時間テレビ?

おえど

「お江戸 - O•EDO -」1990年
●歌舞伎衣装で沢田研二「TOKIO」「お江戸」とカバーした「イカ天」バンド。ただの一発屋でした。それこそブームに踊らされた泡沫バンド。ただ、一つだけ。リーダーの犬神一番は、1996年前後のNTV「24時間テレビ」で毎年几帳面に募金を武道館に持って来て、ステージの一番スミッコで「サライ」を歌っていた。アレって何のつもりだったんだろう?


X JAPAN アーティストの死、共同体の死。

ピンクスパイダーピンクスパイダー
(1998/05/13)
hide、Spread Beaver 他

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HIDE WITH SPREAD BEAVERS「ピンクスパイダー」1998年
「たけしの元気が出るテレビ」のヘビメタネタなどに出演しつつも、その過激なヴィジュアルと徹底したメヴィメタルサウンド、自滅寸前の壮絶なパフォーマンスを武器に、1989年鳴り物入りでメジャーデビュー。カリスマ的な支持を集めた。小泉元首相までがフェイバリットに挙げたバンドで、去年電撃的に復活した。だが、実はハードロックが得意でないボクは、当時の彼らにはあまり興味が持てなかった。
●ボクが彼らに興味を持ったのは1997年の解散以降。1998年のギタリストHIDEの突然の死だ。HIDE WITH SPREAD BEAVERS 名義での活動は、ソレ以前のイメージを大きく裏切った、サイバーパンク感覚の最新鋭ミクスチャーロックへと進化し、実に快調なスタートを切ったはずだった。その後 RIZE にもカバーされた「ピンクスパイダー」は今でも優れた曲だと思う。事故なのか自殺なのか、彼に何があったのかはボクには全く想像もつかないが…。
●同年執り行われた築地本願寺での葬儀。数千人のファンたちが寺を取り囲み、故人の死を悼んだ。ボクは仕事でこの現場に居合わせた。そしてしばしの間、悲しむファンの女の子たちと会話をする事が出来た。HIDEと同じように髪の毛をピンクに染め上げた少女たち。彼女たちはそれぞれの学校、それぞれの生活の中で、常に孤立感を持って暮らしている。そんな彼女たちが、バンド/アーティストを通じて同好の友を見つけ、大きな仲間、共同体、連帯感を形成する。反対に言えば、アーティストが死ぬというコトは、彼女たちの共同体が死ぬ、崩壊するというコトと同義なのだ。バンドを追っかけ、ライブに熱狂した仲間たちは、もう二度と集まる事がない。孤独な少女はバンドを通じて仲間を見つけた。バンドを通じて多くの物を得た。だからこそ彼女たちはバンドを失う事で全てを失う。それを嘆き悲しんでいるのだ。
2000年HIDE の出身地・横須賀市に彼の業績を記した「HIDE MUSEUM」が開館する。ココに結実した、ファンが集まれる場所を作ろうという運動は、まさに葬儀の最中である築地本願寺周辺に集まったファンの中で自然発生的に始まっていた。誰とも分からず大学ノートが用意され、多くのファンがそのノートを回し回し署名を集めていた。ボクはそれを目撃した。強い連帯感に感動した。スゴいことだと思った。
●ボーカリスト TOSHI の洗脳騒動も一時のワイドショーを賑わせた。当然真相なんてボクには分からない。ただしあの宗教団体?のリーダー MASAYA 氏のCD音源が、なぜか我が家のCD棚にある。内容は毒にも薬にもならないヒーリング系音楽で、放送業界では無難なBGMとして以前からしばしば使われていたそうな。
1999年頃、仕事として群馬県太田市の枝豆農家を訪れた際、その太田市の真ん中にあるジャスコ(イーオン?)の5階催事場で TOSHI のフリーイベントの告知チラシを見つけた。「ええっ?!あの TOSHI がこんなトコロでソロライブすんの?」ビビりました。こんな山深い街の人気もまばらなショッピングセンターだよ、5階催事場の隣は100均ショップのダイソーだよ、チラシは緑のA4用紙に単色コピーだよ!ホントにこの人、どーしちゃったんだろう? コレも、スゴいことだと思った。


池田貴族 ロックとは何か?ロックから堕落するってどういうことか?

アイデン&ティティ32―アイデン&ティティ 第3部アイデン&ティティ32―アイデン&ティティ 第3部
(2004/07)
みうら じゅん

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みうらじゅん「アイデン&ティティ32」
「イカ天」出身のヴィジュアル系バンド、remote のボーカリスト。深紅に染まった衣装とナルシスティックな言動が目を引き、1990年にメジャーデビュー。しかし1992年にはバンドは解散。彼はなぜか心霊研究家という微妙なポジションでテレビ業界の隅っこで生き残る。音楽もロックも関係ないじゃん。それってアリ?そんな彼に対して大槻「リンダリンダ〜」の中でも批判的な立場をとっている。池田の先輩格でもあったみうらじゅん「アイデン&ティティ」でも池田をほのめかすキャラクターが登場する。
●しかし1996年池田はガンを発症。死にゆく自分の人生をロックミュージシャンとして幕引きしたいという希望は、多くの仲間の共感を集めアルバム制作へと結実する。このエピソードを大槻は哀悼の気持ちを込めて「リンダリンダ〜」で丁寧に語っているし、みうらじゅん「アイデン&ティティ32」池田の死をほのめかす物語を描いている。池田の音楽にボクは興味を持てないが、彼の死に様には強く心を動かされるモノがある。1999年死去。享年37。



バンドブーム以後。ジェイポップの時代。

バンドブームがいつ終わったのか、という定義付けはしない。さほど意味がないだろう。消える者はあっという間に消え、残る者は今も健在だから。ただし、ブームの前と後で、日本の音楽業界は大きく姿を変えた。90年代、「渋谷系」ジェイポップの到来だ。

音楽シーンの多様化。そして「渋谷系」へ。
「ロック」であるということは、「個性の自己表現」であるという思想(幻想?)が生まれた。60年代〜80年代は、作曲家/作詞家/歌手/演奏家の分業によって楽曲が成立していたが(例 作曲:後藤利次/作詞:秋元康/歌:おニャン子クラブ)、バンドブーム以後は、コレを全てアーティスト個人が自分たちで担う事が当然となった。バンドマンは他人から曲をもらったり、言いたい事を誰かに代弁してもらったりしない。演奏も自分たちでする。これが暗黙の了解となる。70年代の吉田拓郎たちはこれを当然のようにこなしていたが、当時はあくまでマイノリティであって、それがゆえにわざわざ「シンガーソングライター」などという肩書きが与えられたのだ。
●音楽シーンも多様化した。メジャーシーンから見た「バンドブーム」は全部ひとくくりで「ロック」扱いだったが、アーティスト個々はそれぞれのバックボーンを持っていた。ファンク、レゲエ、テクノ、パンク、ヒップホップ、ジャズ。80年代に推進されたアナログからCDへのメディア革命で、過去の洋楽音源や最新の海外情報が一斉に世に溢れた。これらの情報が滋養となって、音楽界内サブカルチャーがそれぞれ枝葉を伸ばすように進化し、独自の世界観とファン集団を形成するに至った。音楽とライフスタイル(パンク、レゲエ、ヒップホップ)を結びつけて考える若者たちが多く現れた。
●そんな新しい音楽観を持つ若者に支持され、インディシーンは地に足着いた活動を始め独自の進化を遂げる。メジャーに振り回されたブームの泡沫バンドの轍を踏む事なく、新世代は高い偏差値とクレバーなビジネスセンス、そして海外と直接リンクした最先端のセンスで「渋谷系」カルチャーを生み出す。日本歌謡界/芸能界/既存マスメディアの伝統から自由になり、同時代の海外シーンと共振共鳴し、クラブを舞台に90年代をきらびやかに飾り立てた。これについては先日「渋谷系」を考察したボクの過去の記事を参照してもらいたい。

ジェイポップ時代。そしてタイアップ。
●メジャーシーンはメジャーシーンで、新しい商売の方法を思いついた。テレビメディアとの新しい共謀作戦だ。確かにランキング歌番組は滅びた。そこで彼らは、大ヒット番組の主題歌やCMソングというカタチで、自分の商品をヘヴィープレイすることにしたのだ。つまり「タイアップ」だ。この手法は驚異的だった。
●トレンディドラマ全盛のこの時代、ドラマの主題歌から数々のヒット曲が生まれた。松任谷由実、サザン、チャゲ&飛鳥などのベテランアクトがキャリアの絶頂を極めた。一方で、ZARD、WANDS、T-BOLAN、DEEN などなど由来不明の名を持つ顔の見えないバンドも数々現れた。顔は見えないが、音はCMやドラマでおなじみ、というコトでこれらのバンド(?)も売れた。90年代前半はメガヒットの時代だ。ミリオンセラーが続出しレコード業界は非常に潤った。世間がバブル崩壊で喘ぐ中、レコード業界は1996年まで好況でいられたのだ。
●邦楽の洋楽化傾向はメジャーでも進んだ。80年代から活躍していたテクノポップバンド TM NETWORK のコンポーザー小室哲哉が、最新の機材と音楽スタイルで90年代型ダンスミュージックを日本全国に普及させた。安室奈美恵&スーパーモンキーズユーロビートを、trf でテクノ/レイヴカルチャーを、H JUNGLE WITH T ドラムンベースまでを邦楽に導入した。宇多田ヒカル SPEEDR&Bを日本の一般大衆に紹介した。ベテラン歌謡曲はマイノリティに成り下がり、1998年頃には宇多田ヒカルのアルバム一枚が演歌界の年間総売上を上回るという事態にまで至った。

「バンドブーム」は時代の徒花として、吹き抜けて行った風のようなモノだったかも知れない。ブームの当事者は浮かれるばかりでナニがなんだか分からなかったかも知れない。部外者にはタダの悪ふざけにしか見えなかったかも知れない。しかしボクは、その前と後で日本の大衆文化史は大きな転換を果たしたと考えている。そして、ボクはその時代の中で思春期を過ごし、今もその影響の下に生きている。


●ボク自身が捉える超極私的音楽史は、まだ続きます。コレまでは日本国内の出来事を中心に語ってきましたが、今度は欧米のシーンとボクの私的記憶を重ね合わせて語ってみたいと思います。

●ここまで読んでしまったアナタ、人生は思うほど長くないんですよ。無駄に時間を使ってこんな駄文を読んでしまった。ヒマでヒマでしょうがなかったアナタ、下の拍手ボタンを押して、無駄に時間を使った事を悔いて下さい。よろしくお願いします。
 
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