ボクが日本史に最近ハマってるってのは、前にも書いたです。
●キッカケは大河「篤姫」。アレは江戸時代に対するボクの目線を変えてくれた。女性の視点からだとこの時代はこうも見え方が変わると。転じて今のドラマ「天地人」はあまり興味が持てない。マチョイズム溢れる戦国武士の活躍ストーリーは平凡じゃん。いや見てないから勝手な事言えないけど。
●自分なりに「歴史」を読み替えるコト。教科書や通説から逸脱して歴史を見るコト。それが新鮮でオモシロい。「温故知新」とはそう言うコトでしょ。
●そんな前提で、今回紹介する本で掴んだ江戸時代へのイメージは以下の通り。

 「天下のお江戸は、いかしたヒップスターだらけ。」


元禄時代

児玉幸多「元禄時代」
●シモキタザワの古本屋で200円で購入したボロい本。初版が昭和59年だって。1984年。マジ古本!
●でも「元禄時代」って、よく聞くフレーズだけど、一体いつのどんな時代だかって知ってます?ボクは知りませんでした。そんで、この本を読んでスゲエ楽しんじゃったです。

1960年代末のグループサウンズ全盛期を「昭和元禄」と呼んだ人がいます。欧米でいう「サマー・オブ・ラブ」の時期にややカブる。高度経済成長で日本がどんどん豊かになり、団塊の世代が担ったユースカルチャーが登場する。ロックとサイケカルチャーがゴッタ混ぜで海外から押し寄せ、白タイツの王子様みたいなカッコしたバンドマンが失神するまで歌った時代。あのバカ騒ぎをなぜ「元禄」と呼んだのか?やっと意味がわかった。江戸時代前半戦のピーク、「元禄時代」はヒップな時代だったからだ。

ホンモノの元禄時代は1688年~1703年。江戸幕府が成立し戦乱が完全に終わってから70年以上もたった時代。大阪夏の陣も、2009年から見た第二次世界大戦と同じくらい、いやソレ以上に隔たって見えたに違いない。つまりは超平和。なにかと社会矛盾はあったろうけど、それはいつの世も一緒。
●そんな時代には、オモシロいヤツらが出て来る。敢えてソイツらをヒップスターと呼んで、この時代をボクなりに楽しんでみたい。



元禄時代の将軍さまは、五代綱吉。やるコトなすコト極端な独裁者。

徳川綱吉(徳川綱吉 1646~1709年)

●この徳川綱吉、徳川将軍15人の中でもイチバン伸び伸びと独裁を楽しんだかも知れない人。徳川幕府という政治組織は、意外と合議制に基づいて意思決定を行う場面が多く、時の老中や大老といった人たちが発言力を持つ。将軍は、子供だったりアタマが弱かったり早死にだったりと、不自由な人も多い。でも綱吉は、34歳とノリノリの時期に将軍職に就くと、前政権の重職を失脚させ、自分のシンパをどんどん登用した。堀田正俊という良識あるブレーンがいた頃はよかったが、この人が暗殺されちゃったら、完全独走状態に入る。イエスマンを大勢従いマイワールドを日本中に拡散させた独裁者となる。

綱吉は儒教を積極的に学んだ超インテリで、新井白石荻生徂徠などの有名な儒学者を抜擢もするが、幕臣たちに中国の古典を自ら講義したというから、かなりウザかったに違いない。しかも240回も講義したんだよ、コリャたまらんね。ハマり出したら止まらないタイプ。ちなみに湯島聖堂を作らせたのもこの人。ああ、能楽にもマニアックにハマって自分で踊りまくってたらしい。そういうのにイチイチ付き合わされる部下ってツライよな。

一方で南蛮人にも奇妙な興味を持ってた。この時期日本に滞在してたドイツ人医師ケンプェルさんは、後に手記を残し、将軍との会見も詳しく記録してる。彼は将軍に、歌を歌わされたり、踊りを踊らされたり、画を描かされたりした。将軍は、外国人を不思議なおサルさんとでも思ってたのか?

●あげく彼のマッドな側面が、決定的に表面化したのが「生類憐れみの令」だ。「お犬サマ」の時代。動物愛護主義者は今の世の中にもイッパイいて、捕鯨船に攻撃を仕掛けるとかイロイロしてますが、独裁者が動物愛護の過激派だと、それはそれで大幅に迷惑だ。蚊を引っ叩いた家臣が流罪になる、息子の滋養の為にツバメを捕った者が、親子共々斬罪になる、犬医者、犬針立が大繁盛、中野には42000匹のお犬様が飼育される巨大養育所が作られた。この法律、綱吉が死ぬまで廃止されなかった。将軍はマジだったのだ。

●犬には大量の出費を惜しまないクセして、綱吉は徹底した倹約令を施行する。何しろ偏執狂的なクソマジメだった綱吉、衣服一つにも贅沢を禁じ価格制限まで設けた。大都市の消費市場は拡大していく時代だったが、その気分に水を差し世間を堅苦しいモノにした。地方の農村は都会のインフレの影響を受け、江戸住まいの大名の諸経費を賄うためタップリと搾取された。その意味で倹約令は有効な政策だったが、この過剰にスクェアな雰囲気への反動が、ヒップスターを生む原動力になったのだ。



カブキモノ。お江戸のヒップスターの系譜。
元禄時代に先行する1600年代前半。「かぶき者」が世を賑わせていた。戦後社会となっても、戦争気分が抜けない連中は、平気でケンカをし、スグに人を斬る荒っぽい気性を持っていた。辻斬りもイッパイ。人が斬りたくてしょうがない奴がイッパイ。京都や江戸ではまるでカラーギャングのように徒党を組んだ「かぶき者」が派閥抗争を繰り広げた。彼らだけに通じるスラングもあって、「奴詞」と呼ばれた。
●1650年代に禁止された「かぶき者」ファッションを説明してみる。髪の毛を剃らずロングヘアーのオールバックで、ヒゲを長く伸ばし、ビロードの着物を身にまとい、1m以上のロングソードを二本持つ。武士だけでなく町人にもマネをするものが出て、やはり規制の対象となった。あと、必須アイテムがキセルね。タバコの習慣は豊臣時代に日本に伝わったようだけど、長ーいキセルでプカーンとタバコをふかすのは当時のレイテストファッション。男でも女でもクールとされていたようだ。

●で、「かぶき者」はゲイカルチャーの側面も。古来日本はホモセクシャルに寛容で、「衆道」と言い習わしてた。「かぶき者」はカワイい若者を従えて、彼らにもヒップなカッコをさせていた。ティーンネイジャーの美少年たちを集め、前髪は残したまま、着物の裏地をカーマインレッドにするなど趣向をこらす。こうした美少年の取り合いで刃傷沙汰まで起こすのが「かぶき者」だ。実にはた迷惑だ。こと「衆道」に関しては元禄年間が江戸時代でも最盛期だったらしい。

●後世まで名を遺した「かぶき者」の名前がユニークなので、それも紹介。ある意味で自己顕示欲剥き出しのヒップホップの連中に繋がる気分があるとボクは思う。喧嘩屋五郎佐衛門、からくり六兵衛、とんび勘右衛門、ほていの市右衛門、神鳴庄九郎……。BIG PUNISHER、DAVID BANNER、GHOSTFACE KILLAH、OL' DIRTY BASTARD、SCARFACE、SILKK THE SHOCKER、THE NOTORIOUS B.I.G.……。ね、大味でバカっぽいネーミングセンスが似てるでしょ。ちなみに列挙しました「かぶき者」は全員、死罪/獄門/牢死しています。かぶくのは命ガケっつーことです。



金満商人も命懸けでヒップ気取り。
●歴史の教科書では「士農工商」と商人のランクが一番下と教わったもんです。しかし、江戸/大阪の都市経済が活発になるにつれ、商人の経済力は無視できない存在になるのですわ。
●ワリとビックリしたのは、当時、町人/商人はその居住する土地に対して税金を納めてたけど、商売の利益に対してはほぼ非課税だったということ。江戸幕府はハッキリ言って財政オンチで、老中のような最高官僚ですら幕府の財政事情の全容を把握出来なかったほど。だから、商人階級の利益を正確に把握して税金を徴収するなんてムリらしい。そこでハンパない大金持ちが沢山登場するのですわ。

●で、手にしたカネでナニするか?衣装に、住居に、遊興にブチ込むわけです。今までは「刀」が全てだった。「刀」が社会を支配した。しかしこれからは違う。「カネ」が武器になる。「カネ」を使ってドコまでイケルかが勝負。ココに元禄商人の意地が炸裂する。とある商人は巨大な大名屋敷を購入して美麗を尽くす。「狂の間」と名付けた部屋は、四方の畳をベルベットで包み、その中へ木綿を敷いたという。またとある商人は、妻の寝室の天井にガラスの水槽を作り金魚を泳がせた。金魚を眺めて寝るとは…見事なチルアウトルームだわ。妻にゴージャスな衣装を着せて、どちらがヒップか競い合う「伊達くらべ」なんてコトまでしてた。

スゲエヤツは、将軍綱吉に挑戦した。綱吉が祖先の墓参りで上野方面に出向くと、なにやらいい香りがしてくる。見てみれば、金屏風に金すだれ、見事な振袖で着飾った女二人が花のように立っている。そしてその周囲でこれまた着飾った女6人が、東南アジア原産の超高級アロマ「伽羅」の香を焚き、さらに二人の女がソレをゴールドの扇子で扇いでる。将軍に向けて「伊達くらべ」を仕掛けたのだ。なんと剛胆な!独裁者・綱吉に全国の大名が圧倒されてた時代に、商人が商人の方法で挑発するとは!でも、こんなことすればタダじゃ済まない。この女と夫の商人は、財産没収/追放の刑に処される。
この時代の商人は、半ばヤラレルとわかって仕掛けてる。将軍に向けて特注アロマで挑発した女は他にもいたし、そんなコトをすれば必ず処罰された。奢侈の行き過ぎた商人は当局に処罰されるか、財産を消尽して没落した。それでも、世間がアッというなら仕掛けてしまう。そんなヤツらはヒップスターって言ってイイんじゃない?



アタシらプロだから、ヒップを気取るわよ。吉原のオネエサンたち。
江戸で最もヒップなエリアはドコだったか? 渋谷新宿六本木? なワケない。その辺は当時江戸の中に入ってない。ドコかと言えば、今でもソープ街として栄える、吉原でございます。幕府公認遊郭でございます。最初の吉原は、日本橋人形町にあったんだけど、明暦の大火(二日間で10万人死亡)で江戸が壊滅すると、幕府からの命令で浅草の裏側へ移動せよとの命令が下る。それが現在の吉原。だからホントは「新吉原」と呼ばれ、その地名は1960年代まで残った。
●ここに集う遊女たちの頂点は「太夫」と呼ばれた。吉原のトップ4だけが名乗れる称号。予約が何十日も先まで埋まってる。しかも「太夫」に会うだけで大変なのに、一回目はちょっとお酒を飲む程度でトークもなし。二回目もソレだけ。三回目でやっと馴染みと認められる。しかし相手が野暮なヤツと見れば、十回通ってもナニもしてあげない。凄まじいツンデレぶり。ていうかデレがない。ツンツンだ。どんな権力者にもどんな金持ちにも媚びないロックなポリシーが、吉原の意地だという。映画「さくらん」での土屋アンナのキャスティングは史実に則してたのかな。だってアンナはロックだもん。「さくらん」吉原のオキテすらにも挑戦してしまうのだけど。また「太夫」「おいらん」たちは当時のファッションカリスマであって、流行発信の中心だった。衣装や髪型、歩き方までが注目され、間接的に一般女性にまで影響を与えた。

さくらん [DVD]jpgDVD「さくらん」

遊びに行くオトコの方もハンパじゃない。とにかくカネがかかる。「太夫」本人以外に関係者/スタッフにもカネをまく。馴染みになれば、そのご祝儀を払わないといけないし、年の瀬にも高額のプレゼントまたは現金を贈った。しかも額が問題なのではない。オトコもヒップであることが要求される。大阪では「シカが見たい」と言った「太夫」の願いを叶えるため、奥座敷を取り壊して萩を一面に植え、つがいのシカ2頭を捕まえて、翌日に見せてやったというお大尽もいたそうな。吉原の大門を閉じ2回街全体を借り切った強者もいる。ディズニーランド貸切り以上の無駄遣い。
吉原デビューもスゴくハードルが高い。大体それなりに容姿に自信があるヤツじゃなけりゃ恥ずかしくて吉原は歩けない。それでも、まずは吉原通いのセンパイにご指導願って、吉原にふさわしい衣装の最高級コーディネイトを用意する。これだけで半年かかるという。そんで今度は吉原のお店に通って、ヘアスタイルやトークの仕方を教わる。これで3~4ヶ月。そんでやっとデビュー、「おいらん」に予約をすることができる。吉原で一人前に遊ぶには、膨大なカネ、ずば抜けたルックス、卓越したセンス、そして唸るほどのヒマがないとダメだ。
●カネがない一般人は「とおりんぼ」と言って、ただ街の中をフラフラ見物してたらしい。格子窓から見えるファッショナブルな遊女のカオを見るだけで、エキサィティングな気持ちになれただろうし、おいらん道中のような催しに出くわせば、それはディズニーランドのパレードにも似た興奮を味わえただろう。……というコトで吉原は、あくまでオトコの下半身的欲求から出発してるくせして、結果セレブでハイソサエティな文化発信基地になっちゃった。スゴいです。



「かぶき者」が「歌舞伎」になりました。
●歌舞伎の起源は、出雲阿国という女性が始めたレビューだというのはよく聞くハナシ。彼女は短髪帯刀の男装姿でステージに立ち、遊女と戯れるようなパフォーマンスをしたという。言わば阿国のステージはレズビアンの感性を盛り込んだシロモノで、倒錯的&挑発的な内容でインパクトを与えた。タカラヅカっぽい?それとも浅草女剣劇?これが江戸幕府成立直後の京都の出来事。しかし、阿国に始まる「女歌舞伎」は内容が過激なこと、おまけに売春もしちゃうことで、当局の規制が入り禁止された。「女優」がその後出現するのは明治時代になってからだ。

出雲阿国2(出雲阿国 1572~没年不詳 オトコマエだね!姐さん!)

●女子がダメなら男子ということで、美少年を集めた「若衆歌舞伎」が始まる。しかし「衆道(=ホモセクシャル)」の盛んな時代、これも規制が入って禁止。男性が男性の役で主役を演じる「野郎歌舞伎」が成立して、今日の歌舞伎のスタイルに繋がっていく。市川団十郎が歌舞伎の大名跡となっているのは、女形がイニシャティブを握っていた(みんなエッチ心を忍ばせて劇場に行ってたから人気の中心は女形に集まる)スタイルから、荒々しく男性的なヒーローを演じて豪快/勇壮なスタイルに歌舞伎を移行させたのが初代の団十郎だったからだ。……一方でこの人、個人的な性格は最低だったらしく楽屋で刺し殺されちゃうんだけど。
「女歌舞伎」の連中は売春をして規制を食らったけど、男性歌舞伎の時代も売春は続けられてました。芸は二の次で、ゲイの方に勤しんだ役者もイッパイ。舞台デビュー前の少年も売りに出してたというから、もう役者じゃなくてもイイじゃんって感じ。さて、このイケメンを誰が購入したかというと、美少年好みの紳士たちだけでもないようで、身分の高い女性もお買い上げしてた、というケースもあるみたい。それがポイントになる事件が映画になってる。

1714年。絵島・生島事件。映画版「大奥」。

大奥 スタンダード・エディションDVD「大奥」

●大河ドラマ「篤姫」で、江戸城大奥という場所に興味を持ったので、仲間由紀恵主演の映画版「大奥」を見てみた。ここで描かれるのが、世に言う「絵島・生島事件」大奥を総括する御年寄を担っていた絵島という女性が、歌舞伎役者・生島新五郎と恋愛関係になってしまうというスキャンダルだ。
●映画は、綱吉亡き後の時代、6代家宣が在職3年で死去、息子の7代家継はたった5歳の最年少将軍で政治的に不安定な時期に突入。幕僚/大奥入り交じりの政局の中、家継の母親を凹ましたるという狙いで、その側近だった絵島(仲間由紀恵)が陰謀の標的にされた。歌舞伎役者が大奥まで忍び込んで欲求不満の女性(高島礼子)を慰める様子が描かれているのはホントかウソか?しかしそれでも、一生処女のままで主人に仕えるのが大奥の女性の宿命、それが歌舞伎役者とチチくり合ったとなれば、それはウワサだけでもう十分に大スキャンダルである。

●映画では、相手の役者・生島新五郎は死罪。生島が所属した劇団は取り潰し。他の劇場も吉原エリアの近くまで移動させられることに。絵島は事実上の流罪。絵島の実家では何人かが腹を切ってるし、この一件で処分を受けた者は1500人にも及んだらしい。仲間由紀恵演じる絵島は、冷静な判断力を持つ優秀なキャリアウーマンで、言ってみれば政権中枢で活躍する女性高級官僚。そんな彼女でも、いやそんな彼女だから、恋心に揺れてしまったし、コトの有無と関係なく、揺れてしまった内面の事実を明白に認めたりもした。武家の女の度胸と覚悟というコトでしょうか。
●ちなみに、少年将軍家継は、父と同じく在職三年で病死。次の8代将軍には、徳川吉宗 a.k.a. 暴れん坊将軍が就任するのです。ニュージェネレーション到来。



元禄時代の最高のスキャンダル。「忠臣蔵」事件。
●この大事件も、元禄時代に起こりました。1701年に松の廊下で刃傷沙汰。ジックリ準備の上で1703年、赤穂浪士が吉良邸突入。そして全員切腹。浅野内匠頭にも赤穂浪士にも切腹を命じたのは、全部将軍綱吉です。あーコイツ何もかも杓子定規でクソマジメ。
●この事件は誰もがテレビで見たり聞いたりしてるからことさらアレコレ言わないけど、ボクが注目したいのは、この事件がたちまち江戸時代の庶民のエンターテインメントに変わっちゃったコト。庶民にしてみれば、支配者階級の連中が内部で諍いを起こして復讐劇が起きたというだけのハナシのはずなのに、嬉々として喜んだ気配がある。

「忠臣蔵」(赤穂浪士、吉良邸討ち入りの瞬間。)

綱吉の独裁政権下の超スクウェアな気分の中では(「お犬様の時代」だし)、派手に浪人が暴れるコト自体が痛快なのだろう。江戸市民は、赤穂浪士はいつ仇討ちをするのか、と事前からワクワクしてたようだし、討ち入り事件に際しては、隣人も手を出さずに傍観を極め込む、翌朝の泉岳寺までの道程で町人が浪士に甘酒を振る舞う、などメチャ歓迎ムードが漂っている。浪士はイリーガルなアウトローだけど、その行動に思想と美学がある。アメリカの西部開拓時代のフロンティアでは荒くれ野郎のアウトローガンマンが英雄視されたりするが、何気に気分は同じなのかも知れない。ビリー・ザ・キッドとかとね。

●当時のライターたちも黙っていない。日本のシェークスピア近松門左衛門が、速攻で「仮名手本忠臣蔵」を書いて劇場にかけ大ヒット(内容と史実は全然一致してないらしいけど)。浪士を讃える落首も後を絶たない。当時の日本橋には「忠義を励ますべきこと」という標語が掲げられてたらしいが、赤穂浪士の切腹処分に納得がいかない庶民は、この看板に墨を塗る、泥を塗る、看板を川に投げ入れるなど、無言の抗議を続け、当局は標語を書き換えるハメになったという。



「元禄時代」に活躍したアート系ヒップスター。
●この時代は、出版技術が発達して文学・絵画が庶民レベルまで一般化し始める時代。小説家・劇作家が活躍し始める。そんな一人、この時代のベストセラー作家・井原西鶴の代表作「好色一代男」は、ある意味で江戸時代流ヒップスター列伝である。主人公・世之介は、親から巨額の財産を相続、そのカネで日本中の遊女町を旅歩き、豪遊の限りを尽くす。とことん遊びつくした彼は、最後に「好色丸」という船を作って悪友と共に「女護島」という場所(←なんじゃそら)を目指して絶海に消えるというお話。バカ売れにつき、「好色二代男」「好色五人女」とシリーズ化。「日本永代蔵」は、カネはないけど知恵と度胸とラッキーで成り上がる男の話。そんなストーリーが売れる時代だったのですね。

井原西鶴(井原西鶴 1642~1693年)

井原西鶴には、作家という顔の他に、もう一つのヒップな顔がある。彼は俳句の達人で、機関銃のように大量の俳句をたたき出す特技があった。一昼夜をかけていくつの俳句を吟じることが出来るかという、俳句マラソンともいえるチャレンジを何人かがトライしているが、西鶴の記録は超人的。なんと23500句を一人で吟じる。4秒で一句のスピード。記録係も数だけカウントするので精一杯で、内容は最初の一句しか記録されてない。

●俳句と言えば、松尾芭蕉もこの時代の人だ。「奥の細道」ツアーは元禄2年、1689年のこと。江戸から仙台まで行って、山形経由で日本海に出て海岸線を南下、ジェロ「海雪」で有名になった新潟・出雲崎に立ち寄りつつ、金沢、福井・永平寺、京都・敦賀から岐阜・大垣までめぐる。このツアーの前にも沢山の旅をしてる漂泊放浪癖の人だ。
「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」人生を旅にたとえた彼の生き様は、アメリカ50年代に活躍したビートニクスのそれとカブる。ビート詩人はクスリをキメて盗難車を時速90マイルでぶっ飛ばし北米大陸を放浪しては詩や小説をつづった。先住民に伝わる天然ドラッグを求めてメキシコまでさまようビートニクたち。遠めに見れば芭蕉もビートの連中も変わらない。そうでなければ、ギター一本抱えて貨車列車無銭乗車旅で全米を回ったフォークシンガーたちか。彼らはホーボーと呼ばれて、町の噂話を歌にして生きた(「トピカルソング」と言われる)。そんな彼らの精神が BOB DYLANらの「プロテストソング」に引き継がれる。

thum_basho.jpg(松尾芭蕉 1644~1694年 彼の人生はロードムービー)

●グラフィティ・アーティストとしては、尾崎光琳がいる。宮本武蔵を描く人気マンガ「ヴァガボンド」に登場する芸術家・本阿弥光悦の遠縁である画家(光琳の父の大叔父が光悦)。彼が俵屋宗達とともに日本画ニューウェーブ「琳派」を開く。「狩野派」のように伝統的な世襲制度を持たず、純粋にその技法に憧れたフリーの画家たちが点と点を結ぶように伝え、その系譜は明治時代まで続く。日本の伝統芸能としては異色のスタイルだわ。その影響は海と時代を越えて、クリムトウォーホルにも届いたと言われてる。「琳派」はこれからぼくが勉強したいと思ってる絵画潮流。まだ言葉では説明できないけど、カッコいいと思ってます。

尾崎光琳

(尾崎光琳「燕子花図屏風」 大胆なゴールド使いでも、下品にならないクールさを併せ持つ。)

スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://unimogroove.blog4.fc2.com/tb.php/601-830983fe